・葛野陣屋は元禄10年に紀州藩2代藩主徳川光貞の4男で、後の8代将軍となり徳川吉宗を名乗る、松平頼方が越前国の丹生郡、坂井郡内45ヵ村3万石を与えられ、葛野藩を立藩、その行政機関として設けられたものです。
頼方は一度も御国入り出来ず、陣屋には宿老2人、代官1人、郡奉行1人、勘定役3人、地方手代7人、奉行組1人、出入同心9人、医師1人、勝手役2人体制で運営されました。
宝永2年に葛野藩と同時に3万石で立藩した高森藩は藩主で、紀州藩2代藩主徳川光貞の3男松平頼職が紀州藩主4代藩主に抜擢された為、高森藩は廃藩、その内の1万石が葛野藩に加増され合計4万石となっています。
しかし、頼職は父親の危篤の知らせを聞いて、早馬で江戸から和歌山に移動し、葬儀と和歌山藩政の激務が重なった事で体調を崩し、その1ヵ月後に病死しています。
これにより、頼方が紀州徳川家の家督を継ぐ事になった為、葛野藩は廃藩となり、それに伴い旧葛野藩領は天領になった為、葛野陣屋は続き天領陣屋として利用されました。
享保5年に間部詮言が村上藩から鯖江に入封し鯖江藩が立藩すると、陣屋周辺が鯖江藩領になった為、葛野陣屋は廃止となっています。
葛野陣屋は現在の葛野神社の境内一円だったとされますが、現在は目立った遺構は失われているようです。
福井県:城郭・再生リスト
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