・波多野館は中世以来、長く当地を支配した波多野氏の本城である波多野城の麓に設けられた居館とされます。
波多野氏は承久3年に発生した承久の乱で功績を挙げ、越前国吉田郡志比荘の新補地頭として入部した出雲守義重を祖とする氏族です。
義重は吾妻鏡に名を連ねた程に武勇に優れ、六波羅探題評定衆として、主に京都で活動しています。
一方、曹洞宗に篤く帰依し、曹洞宗の大本山である永平寺開創時の大旦那として大きな影響力がありました。
室町時代に入ると室町幕府2代将軍足利義詮に重用された波多野通郷は評定衆に抜擢され、後裔も評定衆を歴任しましたが、明応の政変後に敗北した足利義澄に与した為、対立した足利義稙方から排斥され、本貫地である当地に帰還しています。
戦国時代には居城である波多野城と朝倉家の一乗谷城との類似性から朝倉家に従属したと考えられます。
天正元年に織田信長の越前侵攻により朝倉家が没落すると帰農したようで、後裔は豪農として当地の開発に尽力しています。
波多野館は一辺約60m四方、周辺を堀と土塁で囲っている比較的小規模な居館で、鎌倉時代から室町時代にかけて幕府の要職を務め、本城の波多野城の規模を比べると、かなり質素な造りだった事が窺えます。
福井県:城郭・再生リスト
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