・小黒丸城が何時頃築城されたのかは判りませんが、建武4年/延元2年に北朝方の有力武将で、越後国守護職に抜擢された斯波高経が、南朝方の越前襲来に備えて築いたとも云われています。
近くには大黒丸城がある事から出城のような機能があったとも云われ、足羽七城の一つにする説もあります。
暦応元年/延元3年に北朝方に転じた平泉寺(現在の平泉寺白山神社)衆が藤島城に立て籠もり、それを、南朝方の主力が取り囲んだものの、激しい抵抗により苦戦を強いられると、新田義貞は援軍として手勢50騎を引き連れて藤島城に向かいました。
一方、小黒丸城にいた、細川出羽守と鹿草公相(彦太郎)は大黒丸城にいた斯波高経の命を受け、平泉寺衆救援の為、手勢300を率いて当城から出撃しています。
すると、偶然、新田義貞郡と燈明寺畷で鉢合わせとなり、思わぬ混戦となりました。
しかし、義貞軍は戦闘の準備が整っておらず兵力も不足していた事から陣形は大きく乱れ、義貞も混乱の中、討死したとも自刃したとも云われています。
延元4年に新田義貞の弟である脇屋義助率いる南朝方が三方から攻撃を仕掛けた為、撤退を余儀なくされ、小黒丸城も落城しています。
小黒丸城は九頭竜川と日野川の合流地点に位置する軍事的要衝で、それらを天然の外堀に見立てていたと思われます。
現在は宅地化と水田に改変されている為、目立った遺構を見る事が出来ます。
石碑が建立されている高台は土塁風ですが、石碑は元々現在より北方50m先にあったとされる為、土塁かどうかも判りません。
福井県:城郭・再生リスト
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