・藤島城が何時頃築城されたのかは判りませんが、南北朝時代には足羽七城の一つに数えられました。
太平記によると、延元3年/建武5年に北朝方の有力武将で越前国守護職に任ぜられた斯波高経が、南朝方の越前国侵攻に対応する為に築いたとされます。
又、江戸時代中期に福井藩が編纂した「越前国古城跡并館屋敷蹟」によると波多野出雲守が城主だったと記されています。
波多野氏は藤原秀郷に玄孫の経範の系統で、波多野義重が承久の乱の恩賞で越前国比志庄が与えられ下向しました。
義重は出雲守だった事から後裔は波多野出雲氏を称し、室町時代には幕府の評定衆の一員になっている事から北朝方だったと思われます。
太平記によると南朝方に敗れた斯波高経は黒守城で抵抗を続け、平泉寺(現在の平泉寺白山神社)の僧兵を懐柔させ北朝方に引き入れると、僧兵は藤島城に立て籠もりました。
藤島城は南朝方の主力が包囲したものの頑強な抵抗により苦戦を強いられた為、新田義貞は50騎の手勢を率いて救援に向かいました。
しかし、北朝方の細川出羽守と鹿草公相両軍300騎も平泉寺衆救援の為に小黒丸城から藤島城に向かっており、偶然に燈明寺畷で鉢合わせとなり、激しい戦いとなりました。
しかし、義貞軍は十分な備えをしておらず兵力的にも劣っていた為に敗退、義貞も自刃したと記されています。
藤島城は西超勝寺境内一帯が城域だったとされ、本堂背後には土塁の遺構と思われる土盛が残されています。
福井県:城郭・再生リスト
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