若狭武田氏館

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後瀬山城守護居館跡(武田氏館跡):略データ
・場 所・福井県小浜市小浜男山
・築城年・大永2年
・築城者・武田元光
・城 主・武田氏、丹羽長秀、浅野長吉、木下勝俊、京極高次
・構 造・居館
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・武田氏館は大永2年に若狭国守護職武田元光が後瀬山の山頂付近に後瀬山城を築城した際、麓に居館として設けたものです。

武田元光は明応3年に武田元信の次男として生れ、永正16年に元信が出家した事を受けて家督を継いで、若狭国守護職に就任しています。

元光は室町幕府管領細川高国に従い、12代将軍足利義晴の擁立に尽力したものの、細川晴元や波多野元清、柳本賢治等は義晴の弟である足利義維を擁立した為、激しい対立関係が生れ、大永7年には桂川原で両軍が激突し、義晴陣営が敗北しています。

これにより、元光の若狭国内の影響力が低下し、国人領主が度々反乱を起すようになり不安定な経営が続きました。

跡を継いだ、武田信豊も足利将軍家や管領細川家の信任が篤かったものの、その分、各地に出兵した事で、領内の疲弊が顕著となり、特に跡継ぎ問題で嫡男である武田義統と対立し、近江国に退去しています。

永禄10年に義統が病死すると、跡を継いだ武田元明は若狭国内で発生した内乱を治める事が出来ず、永正11年に越前国守護職の朝倉義景の干渉を受け、元明も越前国に連れさられた為、事実上没落しています。

さらに、天正10年の本能寺の変では羽柴秀吉から明智光秀に同調したとの罪を着せられ、元明は自刃、これにより若狭武田家は断絶しています。

その後、武田氏館は秀吉に従った丹羽長秀、浅野長吉、木下勝俊等が居館として利用しています。

慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで功績を挙げた京極高次小浜藩に入封すると、武田氏館は手狭だった事から新たに小浜城を築城、御殿が完成するまで、居館として利用しています。

小浜城の御殿が完成すると、武田氏館は廃止となり、その跡地のは高次の菩提寺である泰雲寺が開創され、酒井忠勝が入封すると健康寺(空印寺)が開創されています。

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後瀬山城守護居館跡(武田氏館跡):付近地図
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