・下番堀江館は戦国時代に当地の国人領主である堀江氏が一向一揆衆の急襲に備える為に、本城を番田から当地に遷した際に築城されたと推定され、地名から本荘とも呼ばれました。
堀江氏は鎮守府将軍藤原利仁の後裔とされる斎藤家の一族が越前国坂井郡堀江郷に下向し、地名に因み「堀江」姓を掲げたとされます。
長禄年間になると一向一揆衆の抗争が激しくなり、同族である加賀国守護職の富樫氏の居城である高尾城が落城し、それを目の当たりにした堀江景用が番田館より、防衛力がある当館を築き本拠地を遷したと思われます。
その後も堀江景実が三国湊を支配する等、勢力を拡大しますが、次第に朝倉家からは敵視されるようになり、永禄10年には堀江氏が加賀一揆衆と連携し朝倉氏と対抗しようとしているとの噂が立ち、それを激怒した朝倉義景が2千の兵を派兵して下番堀江館を攻撃しています。
当時の城主である堀江景忠は猛将として知られ、家中も舎弟の左京進、叔父の駿河守景利、駿河守兵庫助と豪の者を従えていた事から激しく抵抗し中々決着が尽きませんでいたが、結局、小和田本流院真孝の調停により和議が成立し、景忠親子は円福寺に入り、その後、能登国隈木に隠居しています。
天正元年に一乗谷が落ち朝倉家が滅亡すると、混乱に乗じて景忠は復権を果たしましたが、織田信長に不満を現した為、天正4年に三国滝谷寺に押し込められ謀殺されています。
下番堀江館は本荘小学校一帯が城域だったとされ、土塁と堀の一部が残されています。
又、隣接する春日神社との境界線にも堀跡が確認出来、北側の竹田川が天然の外堀に見立ていたようです。
春日神社の隣地に境内を構えている龍雲寺は堀江家の菩提寺で、境内には堀江家の墓碑である大型の五輪塔が建立されています。
福井県:城郭・再生リスト
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