・長崎城は「太平記」によると建武4年に細谷馬之助が長崎城、河合城、川口城を築いて、ここを拠点として3千の兵を率いて府中に侵攻したと記されています。
長崎城は寺院と城郭が一体化した寺院城とも言え、「太平記」によると延元3年/建武5年に南朝方の有力武将だった新田義貞が藤島の戦いで討死すると、北朝方の斯波高経は、時宗の僧侶を呼び寄せ、長崎城の城内にあった称念寺の前身寺院である往生院に遺体を運ばせ埋葬したと記されています。
文明12年には越前国の前守護職だった斯波義良が復権を画策し、越前国に侵攻、その際、朝倉家の支配下だった長崎城、金津城、兵庫城、新庄城等を次々と落城させています。
文明13年、今度は一転して朝倉家が反撃に転じ、長崎之道場に侵攻し、これを制圧すると、斯波氏も越前からの撤退を余儀なくされました。
天正元年、織田信長の越前侵攻により一乗谷が焼け落ち朝倉家が没落、織田家本隊が一端引き上げると、加賀一向一揆衆が越前国に侵攻し長崎城を占拠すると、ここを拠点として黒坂氏が守備する舟寄館を龍撃しています。
長崎城は東西110m、南北140m程の単郭の平城で、平面的に見ると変形五角形の形をしており、周囲を土塁と水堀で囲い、現在もその痕跡の一部が残されています。
地名にも小字で「西門」、「北門」、「古屋敷」と城跡の名残が見られ、城跡にある新田義貞公墓所は貴重な事から福井県指定史跡に指定されています。
又、戦国時代に美濃を追われた明智光秀が越前朝倉家に仕えるまで約10年間称念寺の門前で妻子と暮らしていたとされ、江戸時代に松尾芭蕉一行が奥の細道で称念寺を訪れ、光秀の妻が髪を売って金の工面をしたとの逸話を聞き及び「月さびよ 明智が妻の 咄しせむ」の句を詠んだとされます。
福井県:城郭・再生リスト
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