・龍門寺は正安元年に悦厳崇禅和尚により開創されたと伝わる曹洞宗の寺院です。
天正元年、織田信長の越前侵攻により一乗谷が落ち、朝倉義景は落ち延びたものの一族の裏切りにより自刃に追い込まれ、朝倉家は事実上滅亡しました。
その際、家臣だった富田長繁は逸早く朝倉家を見限り、織田方に下った事から府中領が安堵され、龍門寺の境内を城郭として修築し居城としました。
長繁は織田軍に従軍し伊勢長島合戦で軍功を挙げる一方、旧同僚で信長から重用され新たな越前国守護職に抜擢された桂太長俊と対立しました。
又、長俊は悪政を行った事で領民が大きな不満を募らせた事から、長繁はそれら不満分子を糾合し長俊を打倒、さらに旧朝倉家の家臣達を次々と撃破し越前国を掌握しています。
しかし、度重なる戦や織田信長に擦り寄る態度から次第に領民達の心が離れ、領民達は加賀一向一揆衆を呼び込んだ為、再び越前国が混乱、さらに味方の小林吉隆に裏切られ、合戦中に背後から鉄炮で射殺されています。
天正3年、再び織田信長は越前国に侵攻すると、龍門寺城を本拠地として加賀一向一揆衆を掃討し、再び越前国を掌握しています。
信長は北陸地方の長官に重臣の柴田勝家を任命し、龍門寺城には勝家の与力である不破河内守光治が配されています。
天正8年に光治が死去すると、嫡子である不破直光が跡を継ぎましたが、天正11年に発生した賤ヶ岳の戦いで、勝家方として参戦した為、羽柴秀吉に敗れ没落しています。
その後、龍門寺城は廃城になったと思われ、天正13年に府中領主となった木村常陸介重志茲がその跡地に龍門寺を再興しています。
現在は堀の窪みのような地形が一部で見られるようですが、目立った遺構は失われているようです。
龍門寺城の跡地は貴重な事から越前市指定史跡に指定されています。
福井県:城郭・再生リスト
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