・舟寄館は戦国時代に朝倉義景の家臣である黒坂備中守景久が加賀一向一揆に備える為に当地に館を構えたと推定されています。
天文21年に朝倉宗滴が加賀一向一揆衆掃討の為、加賀国に侵攻した際、重臣の堀江中務進景忠の配下に黒坂勘解由左衛門尉景久の名が見られ黒坂氏が朝倉家に従い各地に従軍していた事が窺えます。
元亀元年、姉川合戦に出陣の際、領民は武運長久、戦勝祈願の為と士気を高める為に景久の前で踊ったのが旧盆の8月15日に日吉神社に奉納される舟寄踊の起源と伝えられています。しかし、領民に願いも空しく、景久は姉川合戦で討死しています。
天正元年、織田信長の越前侵攻が本格化すると、黒坂氏は義景の命により竹田・風谷方面の警護の為に出陣しています。
天正2年に一乗谷合戦に敗北し、朝倉義景も一族の裏切り等で自刃に追い込まれ、事実上朝倉家が滅亡しています。
黒坂氏は織田家に従いましたが、織田家の本隊が越前国から引き上げると、加賀一向一揆衆が越前国を席捲、黒坂一族も多くが討死し没落した為、程なく当館も廃されたと思われます。
舟寄館の規模は東西85m、南北75m、周囲を堀と土塁で囲った単郭の平城だったと推定され、西には「館ノ前」、東には「館ノ後」の地名が残っています。
福井県:城郭・再生リスト
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