|
坂井市(歴史)概要: 坂井市には数多くの縄文時代の遺跡があり、舟寄遺跡は縄文時代中期の遺跡では全国的にも珍しい平野部に形成され、竪穴住居跡18棟をはじめ、掘立柱建物、土坑、柱穴、埋甕、捨て場等が発見されています。
舟寄福島通遺跡は縄文時代後期の遺跡で、当時の水田跡や甕棺10基、祭祀に使われたと思われる特殊な土製や石製の遺物等が発見されています。
沖布目北遺跡は縄文時代後期の遺跡で、竪穴建物や掘立柱建物跡が多数見られる他、女性の装飾品、祭祀で利用したと思われる特殊な遺物等が発見されています。
高柳、下安田遺跡は弥生時代の遺跡で、弥生土器、玉作関連遺物、竪穴住居跡、銅鐸の破片等が発見されています。
古墳時代に入ると身分差も進み、大型の古墳が築造されるようになり、特に六呂瀬山古墳群の1号墳は4世紀末期から5世紀初頭に築造された前方後円墳で、北陸地方最大規模を誇ります。
1号墳は全長約147m、後円部径78m、高さ13m、前方部長さ52m、幅58m、高さ11m、2段築成、表面は葺石で覆われ、周囲には埴輪が配され、半円形の張出があります。
六呂瀬山古墳群を含む丸岡古墳群は総数130基に及ぶ前方後円墳や円墳、方墳が分布しており、北陸地方を代表する様な大豪族の本拠地だった可能性があります。
関係性は証明されていませんが、継体天皇の生母とされる振姫の出身地は「日本書紀」によると三国の坂中井の高向、「上宮記」によると三国坂井県の多加牟久村と記されている事から、坂井市の丸岡町の一部だった旧高椋村とも云われてます。
現在でも坂井市周辺には継体天皇や関係者の伝説や史跡が点在し興味深い所です。
振姫は三尾氏の出とされ、天平5年(733)の「山背国愛宕郡某郷計帳」には「越前国坂井郡水尾郷」と記され、この「水尾」が三尾の事とも云われています。
又、古代の官道である北陸道の駅家の中に「三尾駅」が設けられている事から坂井郡内に「三尾」の地名があったと考えられています。
六呂瀬山古墳群は中央と地方豪族との関係や、継体天皇との関係を示唆する遺構として貴重な事から国指定史跡に指定されています。
古代の坂井市周辺は三国国、後の坂井郡に属し、三国国造は「国造本記」によると宗我臣祖彦太忍臣命四世孫若長足尼と記されています。
一方で、天平3年(731)と宝亀11年(780)の坂井郡の大領は三国真人の名が見られる事から、元々は三国氏が国造だったとも考えられます。
三国氏の出自には諸説あり、「国造本紀」によると蘇我氏一族、「日本書記」によると継体天皇の皇子である椀子皇子が三国公の祖と記されています。
平安時代後期になると有力貴族や社寺の荘園が成立し、坂井市には春日大社の別当寺院である奈良興福寺領となる河口荘や坪江荘が成立しています。
神社の開創も相次ぎ、久米田神社や國神神社、伊伎神社、横山神社、高向神社、三國神社は延喜式神名帳に記載された式内社、又はその論社とされます。
特に河口荘を構成する10郷には、鎮守社として春日大社から御霊が勧請され春日神社が創建され十郷十社と呼ばれていました。
中世に入ると、堀江氏が入部し、最盛期には坂井郡一帯を支配したと思われ、市内や隣接するあわら市には堀江氏関係の城柵が複数存在しています。
リメイク版の坂井市の動画
戦国時代に入ると堀江氏は越前守護職の朝倉家に従ったものの、永禄10年(1567)に堀江景忠は一揆勢の内通を疑われ、朝倉義景に攻められ、能登国に落ち延びています。
しかし、その朝倉義景も天正元年(1573)に織田信長に攻められ滅ぼされ、北陸地方は織田家重臣である柴田勝家が統括し自身は越前八郡が与えられています。
天正4年(1576)、勝家は甥である柴田勝豊に命じて丸岡城が築かれ、当時建てられたと推定される天守閣は、現存するものとしては日本最古級の天守閣とも云われ貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
又、越前国最大級の河川である九頭竜川の河口に位置し、室町時代に編纂された日本最古の海洋法規集である「廻船式目」で日本の主要港である三津七湊に数えられた三国湊の整備にも尽力しています。
豊臣秀吉の時代には北の庄城に入った丹羽長秀の家臣、青山宗勝が丸岡城に配されたものの、宗勝は関ヶ原の戦で、西軍に与した事から改易となっています。
代わって、越前に入部した結城秀康の家臣今村盛次が丸岡城に2万6千石で配されています。
慶長17年(1612)に発生した久世騒動で、首謀者となった盛次は幕府の裁定により陸奥磐城平藩鳥居家預かりとなり当地を去り、代わって慶長18年(1613)に本多成重が4万3千石で入部しています。
寛永元年(1624)に福井藩2代藩主松平忠直の強制隠居に伴い、成重は大名の格式を得て、改めて丸岡藩を立藩、その後、重能、重昭、重益が丸岡藩主を歴任しています。
しかし、4代重益の代に内紛が起り、元禄8年(1695)に家臣団を纏めきれず改易となり、代わって糸魚川藩から有馬清純が5万石で入部し、明治維新まで有馬家が藩主を歴任しています。
5代藩主有馬誉純は幕閣に入閣し若年寄、藩政では藩校である平章館を開校させ、藩史・地誌の編纂、財政改革などにも尽力しています。
8代藩主有馬道純も入閣すると寺社奉行、奏者番、若年寄、老中などの要職を歴任、西洋流砲術家の江川太郎左衛門に入門し外国御用取扱を担当しています。
対外政策にも精通していた事から、領内に外国船の出現が現実味を帯びてくると嘉永5年(1852)には西洋式の台場が設けられています。
戊辰戦争の際には逸早く新政府軍に恭順し、京都では御門警衛や京都鞍馬口の警備、越前では敦賀湾警備の為、本妙寺を本陣としましたが、出兵までは至りませんでした。
明治2年(1869)に施行された版籍奉還に伴い道純は丸岡藩知事に就任、明治4年(1871)の廃藩置県が発令されると丸岡藩は廃藩となっています。
一方、三国湊は福井藩と丸岡藩の両藩の保護により、物資の集積場として発展、一方、日本海側有数の北前船の寄港地となり、年貢米や特産物等が京都や大坂に運ばれました。
現在でも、歴史が感じられる町屋建築が点在し、当時の雰囲気が随所に残されており、旧岸名家住宅や、魚志楼、瀧谷寺、三國神社随身門、新保春日神社、大湊神社など19物件が日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間〜北前船寄港地・船主集落〜」の構成文化財に認定されています。
坂井市・歴史・観光・見所の動画の再生リスト
|