敦賀市(歴史)概要: 敦賀市古くから貿易港として知られていた存在で当時の朝鮮半島に存在した百済、新羅、高麗(高句麗)の3つの国との三韓貿易が盛んに行われていました。越前国には2社しかない名神大社、気比神宮(越前国一宮)が勧請されたことからも当時から中央に重要視されていたと思われます。
9世紀に入ると松原客館や松原駅が置かれ、当時の満州から朝鮮半島北部に存在した渤海からの使節団が利用し大陸との貿易が益々盛んになり、10世紀には日宋貿易の拠点の1つにもなります。
南北朝時代には南朝に属し、金ヶ崎城がその拠点となり新田義貞が恒良親王と尊良親王を奉じ立て籠もりますが、間もなく北朝側の足利軍に包囲され尊良親王と新田義顕(義貞嫡男)は自刃し、恒良親王は捕らえられ毒殺されたと伝えられています。
応仁の乱後は新たに越前国の守護職となった朝倉氏が支配し、若狭国の国境に接す、敦賀湊を擁するこの地は軍事的にも重要視され朝倉氏一族が領主となっています。元亀元年(1570)の織田信長の越前侵攻の際にも逸早く金ヶ崎城に取り付かれましたが、同盟関係にあった浅井長政との挟撃作戦により織田軍を見事撃退しています。
敦賀市:上空画像
豊臣秀吉の時代に入ると家臣である大谷吉継が敦賀領5万7千石を与えられ、敦賀城の築城や城下町の整備を行いましたが慶長5年(1600)の関が原の合戦において盟友である石田三成が率いた西軍に組したことで自刃しています。慶長6年(1601)、越前国主となった結城秀康の家臣清水孝正が1万1千石で敦賀城の城代となりましたが元和元年(1615)に発令された一国一城令で、敦賀城は廃城となり敦賀領の独立性は失われました。
その後は小浜藩に属していましたが、天和2年(1682)一部が酒井忠稠に分与され敦賀藩(当時は鞠山藩)を立藩、しかし、定府大名で領地も分散していたこともあり殆んど形式的な存在でした。
宝暦9年(1759)、4代藩主酒井忠香が事実上に本藩である小浜藩から独立し文久元年(1861)には城主格を与えられるまでになりました。戊辰戦争では新政府側に属し各地で転戦し明治維新を迎えています。
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