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敦賀市(歴史)概要: 敦賀市は縄文時代前期から人々の営みが確認されており、櫛川鉢谷遺跡からは隠岐島産の黒曜石薄片が複数出土している事から、隠岐島と関係が深かった事が窺えます。
弥生時代に入ると大規模集落が出現し、弥生時代中期には高地性集落である舞崎遺跡が見られます。
吉河遺跡では弥生時代の竪穴建物や掘立柱建物、方形周溝墓、土器、石器、玉作関連遺物、木製品、土製品などが発見されています。
古墳時代になると複数の古墳が築造され、中郷古墳群や穴地蔵古墳、立洞古墳、衣掛山1号墳、宮山古墳群などが点在しています。
特に、中郷古墳群を構成している古墳の一つ向出山1号墳は5世紀末期頃に築造されたと推定される円墳で、直径60m、高さ9m、突出部を含んだ全長75mは敦賀地方最大規模を誇り、数多くの副葬品が発見されています。
上記の古墳との関係は判りませんが、日本書記によると、垂仁天皇2年に朝鮮半島出身の都怒我阿羅斯等が穴門と出雲を経て、当地である笥飯浦に上陸し都を訪れたとし、それが地名「角鹿」の由来と記されています。
日本書記では都怒我阿羅斯等は朝鮮半島に帰国したとされますが、氣比神宮の社伝によると、敦賀の統治を命じられ当地に留まってとし、新撰姓氏録にも複数の後裔が名を連ねています。
中郷古墳群を構成する向出山古墳群のうち3基と、明神山古墳群のうち5基は貴重な事から国指定史跡、向出山古墳出土品が敦賀市指定文化財に指定されています。
越前国には2社しかない名神大社である気比神宮も開創され、越前国一之宮に定められた事から、中央政権から重要視されていたと思われます。
律令制下で北陸道が開削されると、越前国と近江国との国境付近に古代三関に数えられた愛発関が設けられました。
又、北陸道の駅家の一つ松原駅家が設置され、若狭路との分岐点でもあった事から、馬疋と越前国の他の駅家よりも多く重要視されていた事が窺えます。
敦賀湊は古くから国際港だったと目され、当時の朝鮮半島に存在した百済、新羅、高麗の3つの国との三韓貿易が盛んに行われていました。
対岸の渤海との交流が活発になると、9世紀頃に渤海の使節団である渤海使を迎える迎賓館、宿泊施設の役割を担った松原客館が、現在の氣比の松原付近に設けられました。
その後は13世紀頃まで日宋貿易の拠点として大いに栄え、珍しい品を求め全国から商人などが集まりました。
鎌倉時代に入ると、国際湊としての重要性が低下し、以前程の賑わいは無くなったとされ、概ね越前国守護の支配下に入っています。
南北朝動乱時には敦賀周辺の土豪達は南朝方に与し、有力武将だった新田義貞は恒良親王と尊良親王を奉じて金ヶ崎城に立て籠もっています。
南朝方は氣比神宮の支援等を得て激しく抵抗しましたが、足利軍の猛攻により落城、尊良親王と新田義貞の嫡男である新田義顕は自刃し、恒良親王は捕らえられ毒殺されたと伝えられています。
リメイク版の敦賀市の動画
南北朝の動乱が鎮まると、越前国守護代である甲斐氏の一族が支配しましたが、長禄3年(1459)に越前国守護職の斯波氏との対立から激しい攻防戦が繰り広げられています。
朝倉家が越前国守護職に就任すると敦賀の地は若狭国の国境に接し、敦賀湊を擁した事から軍事的にも重要視され一族が敦賀郡司として配されました。
元亀元年(1570)に行われた織田信長の越前侵攻の際、逸早く金ヶ崎城に取り付かれると戦力差もあり、当時の城主である朝倉景恒は間もなく開城に応じましたが、同盟関係にあった浅井長政との挟撃作戦により織田軍を見事撃退しています。
豊臣政権下では重臣である大谷吉継が5万7千石で当地に配され、居城である敦賀城の築城、城下町の町割りなど領内の整備を行っています。
一方で、大坂や京都で城郭や、社寺、城下町建設の為、多くの木材が必要となり、日本海側から産出される木材の多くが敦賀に集められた事からその采配が求められました。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで大谷吉継は盟友である石田三成が率いた西軍に与し、奮戦空しく東軍に押し込まれ為、戦場で自刃、大谷家も改易となっています。
代わって、慶長6年(1601)に越前国守として入封した結城秀康の支配下に入り、敦賀城には家臣である清水孝正が1万石で配されています。
しかし、元和元年(1615)に発令された一国一城令により、敦賀城は廃城となった為、敦賀領の独立性は失われています。
敦賀市:上空画像
秀康の跡を継いだ福井藩2代藩主松平忠直は幕府とは意見が合わず、元和9年(1632)に強制隠居となり、弟の松平忠昌が家督を継いだものの、大幅に石高が減じられ、敦賀周辺はは小浜藩領に組み込まれます。
小浜藩は敦賀城跡の一角に代官所を設けて当地を支配しましたが、天和2年(1682)に小浜藩主酒井忠直の次男酒井忠稠が1万石を分知され、敦賀藩を立藩しています。
しかし、敦賀藩は小浜藩の支藩扱いで、敦賀酒井家は定府大名だった事から藩主が領内に入る事は殆ど無く、領地も分散していました。
一方、敦賀湊は北前船の寄港地として、多くの物資が搬入、搬出した事から大いに賑わい、特に蝦夷地のニシンの取引が多く、港周辺にはニシン蔵と呼ばれる土蔵が数多く建ち並びました。
宝暦9年(1759)、4代藩主酒井忠香の代に小浜藩から独立を果たし、文治元年(1861)に7代藩主酒井忠ますが幕閣で若年寄を担った事から城主格に昇格しています。
江戸時代末期には水戸天狗党が当地で投降し、来迎寺境内で首謀者の武田耕雲斎はじめ353人が処刑され墓碑が建立されています。
戊辰戦争では新政府側に属し、北陸道鎮撫使の先鋒役を務めるなど各地で転戦し明治維新を迎えています。
一方、酒井忠ますは当初、佐幕派だったものの、新政府に転じた慶応3年(1867)に家督を4男の酒井忠経に譲っています。
これにより幕府側に与した小浜藩と対立する事となり、家老である野口文太夫などが藩主の忠経に対して不遜な態度をとるようになりました。
さらに、野口一党は忠経を陥れようと画策した事から、それを案じた家臣5名が野口と腹心の金子泰輔、野口の三男の野口銀三郎を殺害する鞠山騒動が発生しています。
明治2年(1869)に施行された版籍奉還により酒井忠経は敦賀藩知事に就任、明治3年(1870)に鞠山藩に藩名を改めています。
同年に小浜藩に併合され鞠山藩が廃藩になると、それに伴い、小浜藩知事だった酒井忠禄は退任し、忠経が小浜藩知事に就任したものの、明治4年(1871)に廃藩置県が施行された為、小浜藩も廃藩となっています。
明治時代に入ると大和田荘七などの尽力により開港外資貿易港として整備され、さらに、敦賀港からウラジヲストック、シベリア鉄道を経由し欧州に至る欧亜国際連絡列車の拠点として重要視されました。
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