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美浜町(歴史)概要: 美浜町丹生に位置する浄土寺遺跡からは縄文時代前期から中期の土器や石鏃、打製石斧、磨製石斧、石錘、石棒等が発見され、当時から人々が生活を営んだ形跡が見られます。
古墳時代に入ると身分差も進み、町内では浄土寺古墳群や佐田古墳群帝釈寺支群、獅子塚古墳、興道寺古墳群等が見られます。
乙見古墳は7世紀前半頃に築造された円墳で、横穴式石室、数個の土器が発見、美浜町指定史跡に指定されています。
獅子塚古墳は6世紀前半に築造された前方後円墳で、全長32.5m、横穴式石室、表層には埴輪が並べられ、副葬品として須恵器、馬具、武器、武具、装身具等が発見されています。
獅子塚古墳は郡内唯一の前方後円墳で、副葬品も豊富な事から、当地を治めた若狭耳別命の祖と思われる豪族が被葬者と推定され、貴重な事から美浜町指定史跡に指定されています。
律令制下では若狭国三方郡弥美郷に属し、「耳」や「美々」、「弥美」などと記された木簡が発見されており若狭湾に注ぐ耳川河口付近の開けた地域周辺だったと比定されています。
奈良時代には有力氏族が支配したようで、7世紀後半にはその氏寺と思われる興道寺廃寺が開創され10世紀初頭頃に廃寺になったと推定されています。
興道寺廃寺跡の建物基壇の周囲からは多くの瓦などが発見されており、貴重な事から敷地全域が国指定史跡、出土品である塑像螺髪・銭貨・耳墨書土器が美浜町指定文化財に指定されています。
古代の官道である北陸道が開削されると駅家である弥美駅が設置され、三方郡弥美郷に位置したと推定されています。
郷市や佐柿周辺には条里制の地割が残されている事から、早くから開発されていた事が窺え「大道ノ下」や「駒ケ田」という地名が残されています。
神社の開創も相次ぎ、須可麻神社や、御方神社、伊牟移神社、多由比神社、丹生神社、織田神社、日吉神社、佐支神社、高那彌神社、彌美神社は延喜式神名帳に記載された式内社又はその論社とされます。
中世に入ると三方郡織田荘の延暦寺常壽院領は在地の山西氏が管理し、応安年間(1368〜1375年)に一揆が発生し、敗北するまで織田荘を支配したと思われます。
三方郡耳西郷半分地頭職は弘安元年(1288)に京都の臨川寺に与えられ、臨川寺及び天龍寺の支配を受けています。
興道寺は鎌倉時代末期に天台四王院領だった地で、戦国時代には若狭守護の支配下に入り、興道寺彦五郎や長野喜太郎等の土豪が割拠したようです。
リメイク版の美浜町の動画
日向は日向浦と呼ばれ、弘安年間(1278〜1288年)には奈良の春日社の荘園が成立し、元享年間(1321〜1324年)には伊賀式部大夫入道が地頭だった事が記録されています。
戦国時代には若狭守武田家に従った粟屋勝久が国吉城を築き、若狭国侵攻を画策する越前守護朝倉氏を何度も撃退して名を馳せています。
織田信長が台頭すると、主家である武田元明が朝倉氏の元で幽閉されていた事もあり、勝久は信長に従い、元亀元年(1570)、信長の越前国侵攻の際には国吉城が信長の宿所となっています。
天正元年(1573)に朝倉氏が滅びると、勝久は武田元明の奪還に成功したものの、若狭国守護職には復帰出来なかった事から、新たに領主となった織田家重臣丹羽長秀の与力となっています。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利した豊臣秀吉が北陸地方を掌握すると、近江堂木山砦の守備大将として功績を挙げた木村常陸介が国吉城を与えられ、椿峠から耳川橋までの街道整備を行っています。
城下には丹後街道を引込、街道沿いに周辺の集落から民衆を集め現在の美浜町佐柿の原形となりました。
江戸時代に入ると小浜藩に属し、当初は国吉城を当地支配の拠点としていましたが、一国一城令により国吉城は廃城となっています。
寛永11年(1634)に酒井忠勝が小浜藩主に就任すると国吉城の麓に佐柿奉行所を設けた為、この地の重要性は失われず当地方の軍事、行政、経済の中心に位置付けられました。
享和3年(1803)には佐柿奉行所が佐柿陣屋と呼ばれるようになり、引き続き小浜藩から重要視されました。
又、この地は越前国と若狭国の国境に近い軍事的要衝だった事から慶長5年(1600)には若狭国主となった京極高次によって関所が設けられています。
関所の規模は東西約23m、南北約13m、周囲には高さ約1.2mの土塁で囲み人や荷物の往来を厳しく管理していました。
江戸時代末期には水戸天狗党の生き残りが小浜藩に引き取られ、准藩士として佐柿陣屋に配され、藩境の警備等を行ったと思われます。
又、佐柿は丹後街道の宿場町として改めて町割りされ、現在でも懐かしい町並みが残されています。
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