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越前市(歴史)概要: 越前市が本格的に開発されたのは古墳時代からで、市内には茶臼山古墳群や穴地蔵古墳などが散見されます。
茶臼山古墳群は南峰標高135m、北峰標高106m、南北の尾根の長さ約850mの茶臼山全体を埋め尽くすように百数十基の小規模な円墳が築造されています。
穴地蔵古墳は7世紀頃に築造された横穴古墳で、石室には明応10年(1501)に真柄光家が刻んだと思われる線刻地蔵菩薩立像があり信仰の対象となっています。
伝説の域を出ませんが、鞍谷御所跡は継体天皇の即位前の男大迹王時代の居館跡とされ、周辺に数多くの伝説や伝承が伝えられています。
古代は越国に属していましたが、7世紀末期頃に越国は越前国、越中国、越後国に分かれ、養老2年(718)に能登国、弘仁14年(823)に加賀国が越前国から分国し、平安時代初期に丹生郡のうち日野川以東の部分をもって今立郡が成立しています。
当地には越前国府が置かれ、8世紀には国分寺、12世紀頃には総社が開創され、越前国での行政、文化の中心地として整備されています。
国府が置かれた事から府中と称するようになると、越前国の中心として京都との繋がりがさらに強くなり歴史的著名人とも関わるようになりました。
天平12年(740)頃、中臣宅守が蔵部の女孺であった狭野弟上娘子を娶った際、理由は判りませんが越前国味真野に流され、天平13年(741)9月に行われた大赦で罪が許されるまで当地に留まっています。
中臣宅守が味真野で狭野弟上娘子と交わした和歌など40首が「万葉集」に収録されており、当地での思いが偲ばれます。
天平20年(748)には奈良時代の官人・歌人である大伴池主が越前掾として当地に赴任すると、交流のあった大伴家持と和歌を交わしています。
平安時代の女流作家として知られる紫式部所縁の地でもあり、長徳2年(996)に父親である藤原為時が越前守に就任し、当地に赴任した際、紫式部も随行し、代表作である源氏物語には「武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを。」と筆しています。
当時は丹生郡と今立郡に属し、丹生郡の郡司や大領、小領などに佐味姓が散見され、佐味氏が当地の有力豪族だった事が推察されます。
高森遺跡は数多くの墨書土器が発見されている事から、丹生郡衙跡と目され、その近くにある村国遺跡は福井県内最多の墨書土器が発見され、中には「佐味」の字が読み取れる事から佐味氏の居館跡とも云われています。
記録が少なく明確ではありませんが、兄子神社や岡太神社、大虫神社、斗布神社、枚井出神社、雷神社、?山神社、刀那神社は延喜式神名帳に記載された式内社、又はその論社とされます。
北陸道が開削されると、当地には丹生駅が設置され馬が5疋常備されていた事が記録に残っており、場所は越前市小松付近とされます。
阿味駅の場所は確定されていませんが、味真郷とする説が有力なようです。
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鎌倉時代以降も越前国の中心地として機能し、南北朝争乱時には国府の一画に築かれたと思われる新善光寺城に北朝方の有力武将で越前守だった斯波高経が立て籠もり、南朝方の瓜生保や脇屋義助らと激しい攻防戦を繰り広げています。
南北朝の騒乱により周辺が荒廃し、次第に中心地としての機能が失われると、室町幕府将軍足利家の一門である鞍谷氏が味真野に居館を設け鞍谷御所と呼ばれました。
鞍谷氏は越前国守護職の斯波氏の庇護下にありましたが、斯波氏の一族間の対立から発生した応仁の乱により没落し、代わって家臣筋の朝倉家が台頭するようになります。
朝倉家が越前守護職に就任すると、守護所を一乗谷に遷した事から、当地には府中奉行所が設置されています。
戦国時代に織田信長の越前侵攻で朝倉家が滅びると、越前国は織田信長の重臣である柴田勝家の支配下に入り、越前市周辺には勝家の与力として前田利家、佐々成政、不破光治が配されました。
前田利家は府中城、佐々成政は小丸城、不破光治は龍門寺城をそれぞれ築き本拠地とすると、府中三人衆と呼ばれ、合計10万石を領しました。
天正9年(1581)に前田利家が七尾城に移封になると、嫡男の前田利長が府中城の城主となりますが、賤ヶ岳の戦い後は越前国守となった丹羽長秀の支配下に入りました。
天正13年(1585)に長秀の跡を継いだ丹羽長重が若狭国15万石に大きく領地が削られた為、代わって小牧・長久手の戦いで功績を挙げた木村重茲が12万石で府中に入封しています。
重茲は九州征伐や小田原征伐、葛西大崎一揆征伐、朝鮮出兵などで功績を挙げ、文禄元年(1592)に山城国淀領18万石が安堵され、当地を去っています。
代わって、豊臣秀吉の従兄弟である青木一矩が10万石で入封、一矩は慶長2年(1597)に豊臣姓を賜り、羽柴越府侍従や羽柴府中侍従と称しています。
一矩は慶長4年(1599)に加増され本拠地を北ノ庄城に遷すと、府中には隠居料として5万石を与えられた堀尾吉晴が入っています。
吉晴は豊臣秀吉の重臣で三中老に数えられましたが、秀吉が死去すると豊臣家を見限り、徳川家に転じています。
吉晴は慶長5年(1600)に発生した関ヶ原合戦でも東軍として行動した事から、終戦後に出雲富田藩24万石に加増され当地を去っています。
慶長6年(1601)に越前国守として結城秀康が入封し福井藩を立藩すると、附家老だった本多富正が3万9千石で当地に配されました。
本多富正は家老の為、正式な藩では無かったものの、事実上藩として扱われ、明治維新まで本多家が領主を歴任しています。
本多家の居城である府中城は事実上の城郭でしたが一国一城令後は「お茶屋」と呼ばれるようになり、その当時の城下町や領内の整備が現在の越前市の基礎となっています。
当地は中世以来、府中と称していましたが、古代の越前国府が「たけふ」と呼ばれていた事から、明治時代に入り地名を「武生」に改称しています。
明治2年(1869)に歴代領主だった本多家が幕府からは大名と同等に扱われたものの、福井藩からは家臣扱いだった為、一般的な武士と同様に士族に格付けられました。
明治3年(1870)に家臣や領民がそれに反発し武生騒動が勃発、これにより、改めて本多家は華族に列格しています。
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