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永平寺町(歴史)概要: 永平寺町の木橋遺跡からは旧石器時代の遺物が発見され、福井県の中では逸早く人々が住み着いた地域だった可能性があります。
鳴鹿山鹿遺跡からは縄文時代創世記のものとされる有舌尖頭器を主体とした石器群が発見され、当時から人々が豊かに生活し、さらに東日本や中部地方と深い繋がりがあった事が窺えます。
弥生時代の目立った遺跡はありませんが、古墳時代になると、福井県の中では有数の古墳集中地帯となり、松岡古墳群には春日山古墳や泰遠寺山古墳、乃木山古墳、三峰山城跡古墳、吉野八幡神社古墳、南春日山墳丘墓、石舟山古墳、鳥越山古墳、二本松山古墳、手繰ヶ城山古墳等約50基前後の古墳が存在しています。
中でも手繰ヶ城山古墳は4世紀中葉に築造された前方後円墳で、全長128m、後円部径約80m、高さ約18m、前方部幅約60m、高さ約10m、2段築成、葺石、埴輪を備えています。
手繰ヶ城山古墳の被葬者は越国を治めた大首長と推定され、全長129mは福井県内では六呂瀬山1号墳の141mに次ぐ規模を誇っており、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
又、南春日山墳丘墓1号墳は45m×30mの四隅突出型墳丘墳で、同型としては北陸地方最大を誇ります。
当初は越国に属し、若狭国、高志国、三国国、角鹿国の4国が成立すると三国国、越前国が成立すると吉田郡に属しています。
神社の創建も相次いだようで、八幡神社や明神社、柴神社は延喜式神名帳に記載された式内社、又はその論社とされます。
平安時代末期には荘園である芝原荘や志比庄が成立、寛元元年(1243)には志比庄の地頭職を担っていた波多野義重が道元禅師を招いて吉峰寺を開山、さらに寛正2年(1244)には永平寺の前身である大佛寺が開山しています。
永平寺は曹洞宗の総本山として広く信仰を広め、境内の前には多くの宗徒が集まり門前町が形成され、周囲にも大きな影響力を持ち、度々戦乱に巻き込まれ何度も焼失しています。
応永18年には本願寺第五世綽如上人の三男である周覚上人が興行寺を開創、興行寺は越前国の浄土真宗の布教の中心として発展し、最盛期には門前町の市荒川も大いに栄えたそうです。
波多野氏の後裔は波多野館を居館、波多野城を詰城として長く吉田郡上志比村周辺を支配し、室町幕府の評定衆や奉公衆などの要職を担い、戦国時代には越前国守護職朝倉氏に従っています。
一方、吉田郡浄法寺村周辺は鰐淵城を拠点とする鰐淵氏が支配し、戦国時代には朝倉氏の重臣として重きを成しています。
リメイク版の永平寺町の動画
鰐淵吉広は織田信長が越前に侵攻してくると、朝倉義景の命により杉津口の守備や、浅井氏の援軍等を担い、天正元年(1573)の一乗谷城の戦いでは、多くの家臣が離散する中、最後まで織田勢との戦いを貫き討死しています。
江戸時代に入ると福井藩に属しましたが、正保2年(1645)に3代藩主松平忠昌が死去し、次男で嫡子の松平光通が相続した際、忠昌の庶長子で光通の異母兄である松平昌勝に5万石が分与され、松岡藩が立藩しています。
当地には松岡館と呼ばれる陣屋が構えられ、藩庁が置かれた為、周辺には家中屋敷も町割りされ陣屋町として整備された事で、藩内の行政、経済の中心地として発展しています。
承応2年(1653)には昌勝が祖母の菩提を弔う為に天龍寺を開創し、松平家の領内菩提寺としています。
元禄2年(1689)、当時の住職である大夢和尚が松尾芭蕉と知り合いだった事から、芭蕉の奥の細道行脚の際、天龍寺を訪れ宿泊しており、「物書きて扇引き裂く余波哉」の句を残しています。
昌勝の長男である綱昌は、昌勝の弟で福井藩5代藩主である松平昌親の養子となり、延宝4年(1676)に福井藩6代藩主に就任しています。
しかし、貞享3年(1686)、綱昌は藩主の任を務めなかった事から改易となり、福井藩は一時廃藩、その後、松平昌親の再任と石高を半減する事を条件に福井藩が再興が許されています。
当初の松岡藩は福井藩の支藩として、殆ど権限はありませんでしたが、福井藩が一時廃藩になった事で、独立するようになったとされます。
元禄6年(1686)に昌勝が死去すると、子供の松平宗昌が松岡藩の2代藩主に就任しましたが、享保6年(1721)に弟で福井藩8代藩主松平宗邦が急逝し、宗昌が9代藩主に就任した為、松岡藩は廃藩となっています。
松岡藩の旧領は福井藩領に組み込まれ、福井藩金津奉行の支配下に入り松岡館も廃されましたが、勝山街道と永平寺参詣道の宿場町や、物資の集積場として市が開かれる等、多くの往来がありました。
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