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大野市(歴史)概要: 大野市花房に位置する花房遺跡からは約7千年前の土器が発見され、当時から人々が住み着いていた事が窺えます。
縄文時代の遺跡としては右近次郎遺跡や佐開遺跡、下黒谷遺跡などの遺跡が点在し、中でも右近次郎遺跡からは当時としては福井県最大級の13棟の住居跡が発見されて注視されています。
弥生時代の遺跡としては犬山遺跡や新庄遺跡、下黒谷遺跡、中丁遺跡から弥生土器や住居跡等が見つかっています。
古墳時代に入ると身分差も大きくなり、山ヶ鼻古墳群には4世紀末〜5世紀初頭に全長31mの奥越地方唯一の前方後円墳が築造されています。
大矢戸古墳は5世紀末頃に築造された横穴式石室がある直径14mの円墳で、副葬品である須恵器などが発見され、大野市指定文化財に指定されています。
律令制下では越前国大野郡に属し、平城京跡からは「越前国大野郡」と記された木簡が発見され、当地から朝廷に納税していた事が窺えます。
神社の開創も相次ぎ、篠座神社や清瀧神社、国生大野神社、高於磐座神社、磐座神社、荒嶋神社、坂門一言神社、春日神社、八幡神社の九座は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された式内社、又は論社とされます。
平安時代後期頃から有力貴族や社寺の荘園が成立し、最初に東大寺領牛ヶ原荘、その後に小山荘が成立しています。
牛ヶ原荘は、当初、東大寺五師忠範が本主でしたが応徳3年(1086)に白河院が中宮藤原賢子の菩提を弔う為に開創された醍醐寺円光院に寄進しています。
その後、醍醐寺三宝院領の主要荘園となり、鎌倉時代に入ると二階堂行政が地頭に就任しています。
又、小山荘と泉荘の地頭として北条義時や藤原長継、伊自良氏などが歴任しますが寺院の荘園や平泉寺白山神社の社領など領地が混在した為、度々争いが起きています。
鎌倉時代末期になると牛ヶ原荘には地頭として淡河氏が入部したようで、牛ケ原城は淡河右京亮時治が築いたと推定されています。
しかし、元弘3年(1332)に平泉寺の僧兵や衆徒に攻められ落城、時治も討死し淡河氏も没落しています。
延元3年(1338)に斯波高経が越前守護に就任すると、次男である斯波義種が大野の地に配され、戌山城を築き本拠地としています。
戦後時代に入ると斯波氏と家臣筋の朝倉氏が激しく対立しましたが、応仁年間(1467〜1469年)に斯波氏の重臣である二宮将監が討ち取られる等、敗北を重ね没落しています。
応仁の乱後、朝倉家が越前国守護職に就任すると文明年間(1469〜1487年)に朝倉孝景の弟である朝倉経景が戌山城に配されています。
16世紀半頃から大野郡は宗家朝倉義景の従兄弟にあたる朝倉景鏡が支配し、当地が朝倉氏にとって重要視された地域だったことが窺えます。
景鏡は加賀一向一揆征伐や金ヶ崎の戦い、志賀の陣などで朝倉軍の総大将として重きを成し、家臣団の中では筆頭的地位であったと推定されています。
しかし、天正元年(1573)の朝倉家滅亡の際、景鏡は織田信長に内応し、六坊賢勝寺に義景を招き入れると、軍勢で取り囲み自刃に追い込んだ事から、当地が朝倉氏最後の地となりました。
景鏡は本領である大野郡一帯を安堵されましたが、天正2年(1574)に一向一揆衆から標的にされ、平泉寺白山神社で交戦したものの敗れ討死しています。
越前国が織田領になると天正3年(1575)に織田信長の家臣である金森長近が大野郡の2/3に当たる3万石をもって当地に入部しています。
長近は当初、戌山城を本拠地としたものの、翌年の天正14年(1586)には近くの亀山に居城となる大野城を築城、城下町を町割りする等、領内開発に尽力し、現在の大野市の礎となる開発が行われています。
リメイク版の大野市の動画
天正14年(1586)に長近が飛騨高山に移封になると、青木一矩が入封、天正15年(1587)に播磨国立石に転封になったものの、再び8万石を持って大野城に入っています。
一矩が文禄元年(1592)に越前国府中に転封になると、代わって、織田信雄の嫡男である織田秀勝が5万石で入封しています。
秀勝は豊臣秀吉の推挙により参議に就任し、大野宰相と呼ばれる等重用された為、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで西軍に与した事から、改易となっています。
江戸時代に入ると福井藩に属し、初代藩主となった結城秀康は大野城に家臣である土屋正明を配しています。
慶長14年(1609)に2代藩主松平忠次が幕府の裁定により強制隠居させられると、大幅に石高が減らされ、大野城には小栗美作が配されています。
寛永元年(1624)に結城秀康の3男である松平直政が5万石で入封すると、大野藩を立藩しています。
寛永10年(1633)に直政が信濃松本藩に移封になると、代わって寛永12年(1635)に秀康の5男松平直基が5万石で入封、寛永21年(1644)に直基が出羽山形藩に移封になると、代わって秀康の6男松平直良が同じく5万石で入封しています。
延宝6年(1678)に直良が死去すると、その子供である松平直明が跡を継ぎましたが、天和2年(1682)に播磨明石藩に移封となっています。
代わって土居利房が4万石で入封、以来、土居家が大野藩主を歴任し明治維新を迎えています。
江戸時代末期の藩主である土居利忠は名君として知られ、逼迫した藩の財政を立て直し、殖産産業の育成、藩士の教育、軍の近代化等を行っています。
又、越前と美濃を結ぶ美濃街道の宿場町でもあり、特に当地はその中間地点にあった事から交通の要衝として多くの人や荷物の往来がありました。
現在の大野市に残る町並みの中にも当時の趣が随所に残り、越前の小京都と呼ばれ、都市景観100選や美しいまちなみ優秀賞などにも選定されています。
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