大野市(歴史)概要: 大野市の地名が最初に出てくるのは平城京跡から出土した木簡からで、当時から中央にも知られていた存在だったと思われます。その後、奈良興福寺の荘園として開発が進み延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社9座が記されるなど中央との結びつきが強い地域になりました。
鎌倉時代に入ると小山荘と泉荘の地頭として北条義時や藤原長継、伊自良氏などが歴任しますが寺院の荘園や平泉寺白山神社の社領など領地が混在した為、度々争いが起きています。
応仁の乱後、越前守護職となった朝倉氏の支配下に入り後年は当主朝倉義景の従兄弟にあたる朝倉景鏡が領主になるなど重要視された地域でしたが、景鏡が織田信長に内応にした為、六坊賢勝寺が朝倉氏最後の地となりました。
天正3年(1575)、織田信長家臣金森長近が大野市周辺を含む3万石の領主となり、大野城の築城や城下町の整備など現在の大野市の礎となる開発が行われます。
又、越前と美濃を結ぶ美濃街道の宿場町でもあり、特に当地はその中間地点にあった事から交通の要衝として多くの人や荷物の往来がありました。
江戸時代に入ると当初は福井藩に属しますが寛永元年(1624)、松平直政(結城秀康の3男)が5万石で大野藩を立藩させ、天和2年(1682)に直明が播磨明石へ移封となり、変わって土井利房が4万石で入封します。
以来、歴代土居家が越前大野藩の藩主を歴任し、特に土井利忠は幕末の名君と呼ばれ、数々の藩政改革を断行し、殖産産業の育成や藩士の教育に力を入れました。現在の大野市に残る町並みの中にも当時の趣が随所に残り、越前の小京都と呼ばれ、都市景観100選や美しいまちなみ優秀賞などにも選定されています。
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