宝慶寺

  福井県:歴史・観光・見所(ホーム)大野市:歴史・観光・見所>宝慶寺(読み方:ほうきょうじ)

概要・歴史・観光・見所

宝慶寺(大野市)概要: 薦福山宝慶寺は福井県大野市寶慶寺1丁目に境内を構えている曹洞宗の寺院です。宝慶寺の創建は鎌倉時代の弘長元年(1261)、寂円禅師が開山したのが始まりと伝えられています。

寂円禅師は永平寺を開山した道元禅師を慕い中国から来日した高僧で、道元禅師正伝の仏法を実践したことで宝慶寺は大本山永平寺に次ぐ日本曹洞宗第二道場と呼ばれる程寺運が隆盛します。

特に、当時の領主伊自良氏が帰依し宝慶寺の境内には七堂伽藍が建立されましたが、天正年間(1573〜1593年)の一向一揆の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失、さらに寺領が没収され一時衰退します。

越前が織田信長の領地になると宝慶寺は寺領100石が安堵され、江戸時代に入ると22世住職晃龍和尚が福井藩(藩庁:福井城)藩主結城秀康に懇願し、跡を継いだ2代藩主松平忠直は慶長18年(1613)に寺領50石を寄進、寛永10年(1633)にようやく本堂が再建されました。

再建の際は織田信長の甥(信長の妹とされる綱と嫁ぎ先の織田信清との子供)にあたる織田信益とその子供である織田信勝が尽力したと伝えられ境内には織田家の墓碑が建立されています。

歴史が感じられる宝慶寺の楼門
歴史が感じられる宝慶寺の楼門

宝慶寺は寺宝は多く、絹本著色道元禅師図像(鎌倉時代)、絹本著色伝如浄禅師図像(鎌倉時代)、絹本著色釈迦三尊像(鎌倉時代)、絹本著色雲居道膺和尚図像(鎌倉〜室町時代)、紙本墨書伝道元筆「阿闍世王之六臣」法語(鎌倉時代)が福井県指定文化財に指定されています。

前波長俊書状(古文書)、滝川一益等連署寺領安堵状(古文書)、知円沙弥寄進状(古文書)、円聰沙弥寄進状(古文書)、如忻寺領目録(古文書)、建綱筆宝慶寺由緒記(古文書)、存因寺領目録(古文書)、義雲杉(天然記念物)、頭陀袋(資料)、袈裟(資料)が大野市指定文化財に指定されてます。

宝慶寺山門は入母屋、本瓦葺き、一間一戸、四脚楼門、袖廊付、外壁は真壁造板張り、上層部には高欄が廻り、「日本曹洞第二道場」の扁額が掲げられています。総門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、四脚門、中央には「薦福山」の山号額が掲げられています。

宝慶寺本堂は木造平屋建て、入母屋、本瓦葺き、平入、桁行7間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、腰壁は縦板張り、中央には「宝慶寺」の寺号額、内陣には須弥壇が設けられており本尊である釈迦三尊像が安置されています。

又、参道沿いには以前宝慶寺の門前町にあった旧橋本家住宅茅葺屋根の古民家:国指定重要文化財)が移築保存されています。山号:薦福山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦牟尼。

宝慶寺:上空画像

【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-福井県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板-宝慶寺護持会


宝慶寺:ストリートビュー

宝慶寺:本堂・山門・写真

宝慶寺の歴史が感じられる総門
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宝慶寺参道石段から見上げた山門 宝慶寺山門は楼門形式の格式の高い建物です 宝慶寺楼門から見た境内の様子 宝慶寺本堂は一段高い石垣の上に建っています
宝慶寺境内高台に回廊で繋がれている開山堂 宝慶寺庫裏は本堂と繋がっています 宝慶寺本堂を背後の高台から撮影した画像 宝慶寺を庇護した織田信益と織田信勝の供養塔


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