南越前町(歴史)概要: 南越前町の今庄地区には古くから交通の要衝として知られ、平安時代に編纂された延喜式でも、江戸時代の宿場にあたる「鹿蒜」駅が設置されていたことが記されています。現在、地名こそは失われましたが鹿蒜川や鹿蒜山、鹿蒜神社など当時の表記と思われるものも散在し古代の名残が見られます。
又、隣接する敦賀湊は現在の朝鮮半島に存在した百済、新羅、高麗(高句麗)の3つの国との貿易が盛んな湊として知られ(所謂、三韓貿易)、南越前町にも数多くの朝鮮系民族が移住して随所にその痕跡を見ることが出来ます。
源平の合戦では平家最後の勝利となった燧ヶ城攻防戦が繰り広げられ、木曽義仲の家臣仁科守弘が平維盛に敗れ敗走、南北朝時代には南朝の拠点の1つ杣城に新田義貞が立て籠もり府中攻略を行っています。その後も交通の要衝から戦略的な拠点として重要視され越前守護職の朝倉氏の家臣や一向一揆の拠点の1つなどになりました。
天正3年(1575)、織田信長の越前侵攻により朝倉氏が滅ぶと柴田勝家が領主になり居城である北の庄城と信長の居城である安土城(滋賀県安土町)との交通網の確保が重要視され北国街道(東近江路)が整備されました。
江戸時代に入っても重要性が失われず今庄宿には本陣(後藤家)を設け幕末には家屋290軒、旅籠55軒、茶屋15軒、問屋3軒を数え周辺地域の中心地として繁栄しました。又、越前国と近江国の国境付近にある板取宿も重要視されと福井藩は板取番所を設け、役人3人、足軽1人を常駐、刀や弓矢、火縄銃を備えさせ人物改めや荷改めを厳重に行いました。
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