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南越前町(歴史)概要: 南越前町の縄文時代の遺跡としては上平吹遺跡や久喜遺跡、荒井遺跡、八飯遺跡、下長谷洞穴遺跡等が見られ、当時から人々が住み着いていた事が垣間見えます。
南越前町内にある弥生時代の遺跡は、鋳物師小坂遺跡等に限定され、目立った遺構は少ないと言えます。
古墳時代になると身分差が広がったと思われますが、町内で目立った古墳が無く、僅かに下長谷洞穴遺跡に同時代の生活の痕跡が窺える程度となっています。
律令制下には越前国の敦賀郡と丹生郡に属し、官道である北陸道が開削されると駅家である「鹿蒜駅」が設置されています。
地名としての「鹿蒜」は失われましたが、鹿蒜川や鹿蒜山、鹿蒜神社等が散見し、下信道遺跡は「鹿蒜駅」の跡地とも云われています。
神社の開創も見られ、鹿蒜神社、白鬚神社、鹿蒜田口神社、白山神社、麻気神社は延喜式神名帳に記載された式内社、又はその論社とされます。
又、隣接する敦賀湊は現在の朝鮮半島に存在した百済、新羅、高麗の3つの国との貿易、所謂、三韓貿易が盛んな湊として知られ、敦賀湊と通じて南越前町にも多くの渡来人が住み着いたと見られます。
特に朝鮮系の人達が移住した推定され、新羅神社や白髭神社、淑羅川が転じたと思われる日野川はその名残とも云われています。
源平の合戦では平家最後の勝利となった燧ヶ城攻防戦が繰り広げられ、木曽義仲の家臣仁科守弘が平維盛に敗れ敗走しています。
鎌倉時代に入ると中世の荘園である「杣山庄」が成立、元々は後鳥羽上皇の生母七条院の所領で、安貞2年(1229)に上皇の後宮の修明門に譲られ、その後、大覚寺統に移っています。
鎌倉時代末期には瓜生衛が当地に移り住み、杣山城を築城、跡を継いだ瓜生保は南北朝の動乱時に南朝方に属し、南朝方の有力武将だった新田義貞が当城を拠点に府中攻略を行っています。
その後、瓜生保は金ヶ崎城に立て籠もった、新田義貞、恒良親王、尊良親王を支援しましたが、延元2年(1337)に北朝方と交戦し討死したとも云われています。
その後も、杣山城は南朝方の拠点として利用されましたが、興国2年/暦応4年(1341)に北朝方に攻められ落城、杣山城は北朝方の越前国守護、若狭国守護を担った斯波氏の支配下に入っています。
戦国時代に入ると斯波家の重臣である増沢甲斐守が配されますが、文明6年(1474)に朝倉孝景に攻められ落城、その後は朝倉家家臣河合安芸守宗清が城主として赴任しています。
天正元年(1573)に織田信長の越前侵攻により朝倉家が滅びると、一時、一向一揆の拠点の1つに利用されましたが、その後、織田家の支配下に入っています。
北陸方面の司令官に就任した柴田勝家は本城となった北の庄城と信長の居城である安土城(滋賀県近江八幡市安土町)との交通網の確保が急務となり、天正3年(1575)には北国街道が整備されました。
リメイク版の南越前町の動画
江戸時代に入ると福井藩に属し、慶長7年(1602)には結城秀康によって北国街道が改めて整備され、町内では今庄宿と板取宿、脇本宿、鯖波宿、湯尾宿が宿場町として整備されました。
北国街道は北陸諸藩が参勤交代で利用し、日本海側と京都や大坂等大消費地の都市を結んでいた事から人や荷物の往来が多く大いに賑わいました。
今庄宿は峠前の宿場町という事もあり、多くの大名が宿泊や休息で利用し、本陣の後藤覚左衛門家には福井藩の松平家、脇本陣は加賀藩の利用が多く、「加賀本陣」とも呼ばれました。
今庄宿は幕末の記録によると本陣1軒、家屋290軒、旅籠55軒、茶屋15軒、問屋3軒を数え周辺地域の中心地として繁栄しました。
江戸時代末期には水戸天狗党が宿営地として利用しており、京藤甚五郎家には党員がつけたと伝わる柱の傷が残されています。
現在の今庄宿には文政元年(1818)の大火以降から昭和初期までに建てられた伝統的な町屋建築が良好な町並みを形成しており、国の重要伝統的建造物保存地区に選定されています。
越前国と近江国の国境付近にある板取宿も重要視され、福井藩は板取番所を設け、役人3人、足軽1人を常駐、刀や弓矢、火縄銃を備えさせ人物改めや荷物改めを厳重に行いました。
湯尾峠には、4軒の茶屋と疱瘡の神を祀る孫嫡子神社が鎮座しており、元禄6年(1686)8月13日には松尾芭蕉が奥の細道行脚の際に訪れています。
当時の様子は奥の細道で「やうやう白根が嶽かくれて、比那が嶽あらはる。あさむづの橋を渡りて、玉江の葦は穂に出でにけり。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越ゆれば、燧が城、帰山に初雁を聞きて、十四日の夕暮、敦賀の津に宿をもとむ」と記されています。
後に芭蕉は孫嫡子神社の由来を聞き「月に名をつつみ兼ねてやいもの神」の句を詠んでいます。
湯尾峠は芭蕉の奥の細道所縁の地として貴重な事から、名称「おくのほそ道の風景地」として国指定史跡に指定されています。
河野地区は敦賀湾の入口側面に位置している事から江戸時代中期から明治時代前期まで、日本海の海上交通の要衝として栄え、右近権左衛門家や中村三之丞家、中村吉右衛門家、刀禰新左衛門家等が北前船の船主として大いに栄えました。
現在も河野北前船主通りには当時の船主の屋敷が残されており、中でも、右近家住宅、旧右近家住宅西洋館、中村家住宅、船絵馬仁恵丸が日本遺産である「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間」の構成文化財に指定されています。
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