熊川宿(若狭街道・宿場町)概要: 熊川宿は福井県三方上中郡若狭町熊川に位置している若狭街道(鯖街道)の旧宿場町です。若狭街道(鯖街道)は小浜と京都を結ぶ街道で小浜の名産である鯖の塩漬けを中心に日本海の海産物を運んだ事から「鯖街道」と呼ばれてきました。
特に若狭は古代から都に海産物を供給する御食国の1つで、当時の外交は主に日本海を挟んだ対岸交流だった事から外国との玄関口でもあり、若狭国から都(奈良・京都)には幾つもの街道が整備され、多くの物資や人の往来があり街道沿いには様々な文化が花開く結果となりました。京都への物流ルートは様々あり総称として鯖街道と称していたようですが、若狭街道は一般的に小浜から日笠、熊川宿、朽木宿(朽木陣屋町)を経て京都出町柳を結ぶ街道を指しています。
【 中世の熊川氏 】−熊川宿の集落的な発生は観応2年(1351)、足利尊氏から瓜生庄下司職を賜った沼田氏が居城として熊川城を築きその城下町として整備されたのが始まりと思われます。
その後も沼田氏は当地を支配しましたが、永禄12年(1562)に当時の若狭守護職武田家の被官松宮玄蕃允に攻められ熊川城は落城、沼田氏は大浦氏(後の津軽氏)を頼り津軽(現在の青森県)に逃れています。因みに弘前城(青森県弘前市)を縄張りした沼田面松斎(祐光)は熊川城の最後の城主になった沼田光兼の子供とも云われています(確証無し)。
若狭街道は若狭地方と近江、京都を繋ぐ重要な路として軍事的にも重要視された事から戦国時代の元亀元年(1570)4月22日には織田信長による越前侵攻の際に、若狭街道を西上し熊川宿を宿営地として利用しています。現在、熊川宿で境内を構える得法寺には信長の越前攻めに従軍した徳川家康が休息の際に座ったと伝わる松が残されており「家康の腰掛の松」と呼ばれています。
金ヶ崎城(福井県敦賀市)で浅井氏の裏切りを知った織田信長が京都に撤退した際には、旧城主沼田氏の一族である沼田弥太郎が信長に供奉し道案内していたとの記録(継芥記)も残っており、関係性が窺えます。
歴史が感じられる熊川宿の良好な町並み
【 浅野長政の政策 】−天正12年(1581)に丹羽長秀が領主になると熊川城は廃城となり、天正15年(1587)に長秀が死去すると、天正16年(1588)に浅野長政(豊臣秀吉に従い若狭国小浜8万石の国持ち大名となった。)が入封、天正17年(1589)から本格的に若狭街道(鯖街道)を整備しました。
特に熊川宿が若狭国(福井県)と近江国(滋賀県)の国境に接していることから重要視し、天正17年(1589)正月に「諸役免除」の布告を行い、さらに「熊川年寄中覚」を発布、これにより周辺の農村から民衆を集めて熊川宿の発展の基礎を築きました。
【 小浜藩の政策 】−江戸時代に入っても熊川宿の重要性が失われず、慶長5年(1600)に小浜藩の藩主となった京極高次は慶長6年(1601)には「従高嶋在々熊川へ入馬之事」を発布し、藩米を運ぶ際の駄賃を細かく設定、宿場町として整備すると共に小浜藩の出先機関である熊川陣屋が設置されました。
京極家が松江藩(島根県松江市)移封となり酒井忠勝が入封すると陣屋は排されたものの、小浜藩の奉行所や番所、藩の御蔵などを設置、それらを管理する足軽の居宅である足軽長屋も建てられました。
又、京極高次が小浜城を築城する際に熊川宿周辺の村々に重税を課し、小浜城が完成した後も続けられた事から代表者である松木庄左衛門が藩主酒井忠勝に訴え、要求が通ったものの処刑されています。
若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区の町並み
その後、北川舟運の最終遡上地でもあった為、多くの物資が集まり熊川宿から人馬で京都まで運ぶというルートが確立、さらに河村瑞軒が寛文12年(1672)、北前船による西回り航路を開削し定着した事で、江戸時代中期以降、物資の輸送や人々の往来が活発になると飛躍的に発展し、熊川宿は若狭街道(鯖街道)随一の宿場町と称されました。
若狭街道は幕府から認められた正式な街道では無く、参勤交代にも利用されなかった事から、熊川宿には本陣や脇本陣はありませんでしたが、経済的に大きく発展した為、問屋職が他の宿場町より多い6〜8家(菱屋清兵衛・倉見屋又兵衛・高嶋屋勘兵衛・長浜屋次左衛門・倉見屋八左衛門・米屋与兵衛・菊屋忠兵衛・大津屋伊兵衛・和泉(泉)屋仁兵衛)選定されていました。
詳細は勉強不足で判りませんが、逸見家は細川氏や武田氏に従った家臣、倉見家は鎌倉時代に倉見荘の御家人、勢馬(菱屋)家は同地の草分けの存在の一族、後裔と考えられる事から中世以来の支配層が引き続き熊川宿でも実力者として小浜藩から重用されたと思われます。明治時代に入り宿場制度の廃止と近代交通網の導入により衰微しましたが、逆に当時の町並みが残される結果となりました。
熊川宿は現在でも旧問屋倉見屋(文化6年建築:国指定重要文化財)や旧逸見家住宅(伊藤忠商事2代目社長伊藤竹之助の生家、江戸時代末期建築:若狭町指定文化財)、旧問屋菱屋などの町屋建築、熊川番所、旧熊川役場(昭和15年建築、洋風建築、若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館)などが形成する良好な町並みが残され平成8年(1996)には名称「若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
熊川宿:上空画像
【 鯖街道 】−鯖街道は若狭街道の別称で日本海側の主要都市である小浜と大消費地だった京都を結んでいました。経路は小浜藩の藩庁と藩主居館が置かれた小浜城の城下町から熊川宿(福井県若狭町)、朽木宿(滋賀県高島市)、大原(京都府京都市左京区北東部)を経由して京都の出町柳に至る街道で、特に「京は遠ても十八里」と歌われたように比較的短時間で京都に至る事が出来た為、日本海(若狭沖)で採れた鯖を塩締めにして京都に運ぶと、到着した頃に丁度よい塩加減になった事から数多くの商家が取り扱い、何時しか「鯖街道」と呼ばれるようになったそうです。
鯖だけでなく日本海の海産物や、北前船でもたらされる各地の名産、京都からは洗練された高い文化が入り込み、独自な文化がもたらされ、安永5年(1776)には与謝蕪村が「夏山や 通ひなれたる 若狭人」の句を残しています。これらの歴史的な背景から平成27年(2015)には名称「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 〜御食国若狭と鯖街道〜」として日本遺産に選定されています。
【 町の構成と人口 】−熊川宿は大きく上ノ町、中ノ町、下ノ町の3町で構成され、中心部に位置した中ノ町には、小浜藩の施設である町奉行所、蔵奉行所、御蔵、荷物の取次を行った問屋、信仰の中心となった神社仏閣が境内を構えていました。上ノ町の外れは京都方面だった為、小浜藩の口留番所が設けれ、宿場の端には結界神と思われる権現神社(上ノ町)と西山稲荷神社(下ノ町)が鎮座しています。
その後も熊川宿は周辺の行政、経済の中心地として発展し、江戸時代中期の享保11年(1726)に記録された「御用日記」によると家数213軒、人口1175人と、おおいに繁栄しましたが、明治時代に入り交通網が整備されと次第に衰退します。其の為、大きな近代化が成されず現在でも熊川宿には数多くの町屋が軒を連ね当時の町並みを色濃く残されました。
熊川宿:周辺駐車場マップ
【 熊川宿の町並み景観の要素 】−熊川宿は平成8年(1996)に国の重要伝統的建造物群保存地区(名称:若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区)と国土交通省(建設省)による歴史国道(名称:若桜街道 熊川宿)に選定されています。
又、名称「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 〜御食国若狭と鯖街道〜」の構成文化財として平成27年(2015)に日本遺産に選定されています。
伝統的建造物(建築物):主屋84棟、土蔵48棟、社寺20棟、付属建物65棟、合計217棟。伝統的建造物(工作物):土塀4件、板塀1件、小祠3件、鳥居6件、かわと56件、灯篭12件、その他石造物50件、合計132件。環境物件:用水路5件、樹木6件、その他11件、合計22件。 面積(10.8ヘクタール)。
熊川宿の文化財
・ 国(文部科学大臣)の重要伝統的建造物群保存地区(面積:10.8ha)
・ 旧問屋倉見屋(荻野家住宅)−江戸後期−国指定重要文化財
・ 国土交通省(建設省)の「歴史国道」
・ 平成の名水百選−熊川宿の「前川」には「イモ車」や「かわと」などが残る
・ 国土交通省(国土庁)の「水の郷百選」
・ 財団法人古都保存財団等による「美しい日本の歴史的風土準100選」
・ 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群(御食国若狭と鯖街道)−日本遺産
・ 熊川区有文書(約130点)−熊川宿の歴史を伝える史料−福井県指定文化財
・ 白石神社祭山車綴錦見送−文政年間−福井県指定文化財
・ 旧逸見勘兵衛家住宅−江戸時代−若狭町指定文化財
・ 熊川番所−旧地に残る全国唯一の番所の遺構−若狭町指定文化財
・ 御蔵屋敷跡−小浜藩の蔵奉行所跡−若狭町指定史跡
熊川宿・歴史・観光・見所の動画の再生リスト
【 参考:サイト 】
・ 公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-福井県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板-上中町教育委員会
・ 現地案内板
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