|
若狭町(歴史)概要: 若狭町を流れるはす川とその支流である高瀬川の合流地点に位置する鳥塚貝塚は縄文時代創世記から前期にかけての集落遺跡です。
鳥塚貝塚からは貝殻や動物の骨、木や種子、葉、土器、石器、骨角器、木製品、漆製品、繊維製品などが発見され、保存が良好な木製遺物等1376点が貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
鳥浜遺跡の隣地にあるユリ遺跡は縄文時代中期から後期の住居跡をはじめ縄文時代の丸木船9隻や石錘、鏃、木の実をすり潰す石器等が出土しています。
古墳時代に入ると身分差も進み、弥生時代後期末頃が方形周溝墓が主流だったものの、4世紀前半頃、松尾谷に前方後円墳の築造が始まりました。
特に、上中地域は当地域を支配する有力豪族の本拠地になったと推定され、脇袋古墳群には中塚古墳、上ノ塚古墳、西塚古墳、糠塚古墳、脇袋丸山塚古墳などが築造されています。
中でも上ノ塚古墳は5世紀初頭に築造されたと推定される若狭地方最大の前方後円墳で、墳丘長約100m、後円部直径約64m、前方部長さ約36m、3段築成、表装には葺石や埴輪が見られます。
その他にも町内には上船塚古墳や下船塚古墳、十善の森古墳、丸山古墳、城山古墳、大谷古墳等があります。
西塚古墳、上ノ塚古墳、中塚古墳、上船塚古墳、下船塚古墳は現在も当時の姿を残し、若狭国の古代を知る上でも貴重な事から国指定史跡に指定されています。
5世紀前半に在位したと推定される履中天皇が膳臣余幾を若狭国造に命じ、雄略天皇の御代には膳臣斑鳩が朝鮮半島に渡り高句麗と戦っています。
膳氏は朝廷の食膳を担う役職だった事から、その後も若狭国は引き続き「御食国」として重きを成し、調には絹、薄鰒、烏賊、熬海鼠、雑たい、雑鮓、塩等の海産物を献上しています。
膳氏は長く当地を支配し、脇袋古墳群の背後の山が膳部山と呼ばれている事から、古墳の被葬者は膳氏一族の首長や関係者と推定されています。
律令制下では若狭国三方郡と遠敷郡に属し、両郡には郡家が置かれ、当地の行政的な中心でした。
官道である丹後街道が開削されると駅家である濃飯駅や玉置駅が設置され、玉置郷には駅家と思われる遺跡が発見されています。
神社の開創も相次ぎ、石クラ比古神社、石クラ比賣神社、波古神社、御方神社、多由比神社、宇波西神社、須部神社、於世神社、常神社、能登神社、闇見神社、山都田神社は延喜式神名帳に記載された式内社、又はその論社とされます。
平安時代後期になると有力貴族や社寺の荘園が次々に成立し、三方地域には佐古庄、前河庄、倉見庄、向笠庄、永富保、藍田庄、藤井保、今重保、田井保、三方郷、能登浦、三方浦など。
上中地域には、鳥羽庄、安賀庄、瓜生庄、吉田庄、三宅庄、玉置庄、津々見保などが確認されています。
建久7年(1196)に遠敷郡、三方郡の惣地頭として惟宗右衛門次郎忠季が赴任し、後裔は津々見氏や若狭氏、三方氏と名乗っています。
忠季は若狭国守護でもあり、堤に守護所を設け行政を行った為、当地が事実的に若狭国の中心となりました。
跡を継いだ忠清は、若狭国守護職を解任され、安貞2年(1229)には地頭職も伊賀光宗と交代しましたが、その座を追われた後も大きな影響力を持ち本拠を三方に移しています。
一方、遠敷郡太良荘は若狭国の在庁官人で、鎌倉幕府の有力御家人である稲葉時定が本貫として、後裔もその地を治めています。
南北朝時代の三方保は大飯郡の本郷貞泰と若狭太郎光忠が半分づつを支配しています。
リメイク版の若狭町の動画
光忠の後裔は「三方」姓を掲げ、一色氏が若狭国守護職時代には一色氏の被官として名を連ねています。
永享12年(1440)、若狭国守護職を巡り騒乱が発生、一色氏や三方氏が武田家に敗れ、若狭町の中心的な役割が縮小しています。
同年に武田信栄が若狭国守護職に就任すると、当地には三方郡司として熊谷氏が入部し、堤には武田家の家臣である内藤佐渡守、熊川には室町幕府の奉公衆である沼田氏が支配しました。
永禄11年(1568)に武田元明が越前国守護職の朝倉義景の庇護下に置かれましたが、その義景も天正元年(1573)に織田信長に攻められています。
朝倉家が没落すると、若狭国には織田家の家臣である丹羽長秀が配された為、当地はその支配下に入りました。
豊臣政権下で重臣である浅野長政が配されると、軍道と物流の便宜を図る為、領内と畿内を結ぶ若狭街道を整備しています。
天正17年(1589)には拠点となる熊川に周辺から住民を集め、諸役免除や熊川年寄中覚を発給する等、商人を保護し、熊川陣屋を設けて郡奉行を置いた事で当地域の物流と行政の中心的存在となりました。
文禄2年(1593)に長政が甲斐国に移封になると、代わって木下勝俊が入部、引き続き熊川宿の商人達に対し保護政策を行い、領民に対しても「掟」を発給し行動規則を諭しています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで、勝俊は西軍に与した事から改易となり、代わって大津城の攻防戦で功績があった京極高次が加増を受け小浜藩を立藩し、若狭国主となっています。
高次は慶長6年(1601)に「従高嶋在々熊川へ入馬之事」を発布し、藩米を運ぶ際の駄賃を細かく設定し、当地には小浜藩の出先機関である熊川陣屋を設けています。
京極家が松江藩に移封になると、寛永11年(1634)に酒井忠勝が入封し、未完成だった小浜城の築城を京極家から引継ぎ、普請の為の重税も続いていた為、熊川宿周辺の村人も大変苦しんでいました。
新道村の庄屋である松木庄左衛門が小浜藩に直訴したものの獄中で厳しい拷問を受け、何とか命を懸けた訴えが叶えられましたが日笠河原で磔に処せられています。
小浜藩は、熊川宿に上中郡の町奉行や藩の御蔵なども設け、それらを藩の足軽が管理した事から、その居宅である足軽長屋も建てられています。
小浜港は京都の外港的な役割を持った為、多くの日本海の海産物が若狭街道を通して京都に運ばれ、特に「鯖」が特産物だった事から「鯖街道」とも呼ばれました。
又、熊川宿は若狭街道の宿場町である共に周辺地域の物資の集積地で、近江国と若狭国の国境に接している為に小浜藩の番所が置かれる等、重要視されました。
現在でも熊川には趣のある町屋建築が軒を連ね良好な町並みが残されている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
若狭町は古くから日本海と畿内を繋ぐ要地として多くの文化財や風習が残され、日本遺産に認定された「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群〜御食国 若狭と鯖街道〜」に構成文化財に選定されています。
若狭町・歴史・観光・見所の動画の再生リスト
|