熊川宿(鯖街道)・宿場町・町並み

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写  真 備  考
熊川宿(鯖街道)
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【鯖街道】−鯖街道は若狭街道の別称で日本海側の主要都市である小浜と大消費地だった京都を結んでいました。経路は小浜藩の藩庁と藩主居館が置かれた小浜城の城下町から熊川宿福井県若狭町)、朽木宿(滋賀県高島市)、大原(京都府京都市左京区北東部)を経由して京都の出町柳に至る街道で、特に「京は遠ても十八里」と歌われたように比較的短時間で京都に至る事が出来た為、日本海(若狭沖)で採れた鯖を塩締めにして京都に運ぶと、到着した頃に丁度よい塩加減になった事から数多くの商家が取り扱い、何時しか「鯖街道」と呼ばれるようになったそうです。鯖だけでなく日本海の海産物や、北前船でもたらされる各地の名産、京都からは洗練された高い文化が入り込み、独自な文化がもたらされ、安永5年(1776)には与謝蕪村が「夏山や 通ひなれたる 若狭人」の句を残しています。これらの歴史的な背景から平成27年(2015)には名称「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 〜御食国若狭と鯖街道〜」として日本遺産に選定されています。

【熊川宿】−熊川宿の集落的な発生は観応2年(1351)、足利尊氏から瓜生庄下司職を賜った沼田氏が居城として熊川城を築きその城下町として整備されたのが始まりと思われます。その後、沼田氏は幕府直属の奉公人として当地を支配しましたが、永禄12年(1562)に当時の若狭守護職武田家の被官松宮玄蕃允に攻められ熊川城は落城、沼田氏は大浦氏(後の津軽氏)を頼り津軽(現在の青森県)に逃れています。因みに弘前城(青森県弘前市)を縄張りした沼田面松斎(祐光)は熊川城の最後の城主になった沼田光兼の子供とも云われています(確証無し)。天正12年(1581)に丹羽長秀が領主になると熊川城は廃城となり、天正15年(1587)に長秀が死去すると、天正16年(1588)に浅野長政が8万石で若狭に入封し天正17年(1589)に若狭街道(鯖街道)を整備した際に熊川は宿場町として整備されました。江戸時代に入ると熊川宿は越前国と近江国の国境に近い事から番所が置かれ、北川舟運の最終遡上地だった事から物資の集積地となり経済的にも発達、さらに周辺の中心地として小浜藩の奉行所や御蔵なども設置され行政的にも重要視されました。江戸時代中期以降、物資の輸送や人々の往来が活発になると飛躍的に発展し若狭街道(鯖街道)随一の宿場町と称されました。明治時代に入り宿場制度の廃止と近代交通網の導入により衰微しましたが、逆に当時の町並みが残される結果となりました。熊川宿は現在でも旧問屋倉見屋(文化6年建築:国指定重要文化財)や旧逸見家住宅(伊藤忠商事2代目社長伊藤竹之助の生家、江戸時代末期建築:若狭町指定文化財)、旧問屋菱屋などの町屋建築、熊川番所、旧熊川役場(昭和15年建築、洋風建築、若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館)などが形成する良好な町並みが残され平成8年(1996)には名称「若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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