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高浜町(歴史)概要: 高浜町神野浦に位置する神野浦遺跡は、縄文時代中期後半から後期前半の遺跡で、本格的な調査が行われていませんが、表面採取した土器片数十点が保管されています。
立石遺跡は縄文時代の集落遺跡で、縄文時代後期の炉跡や、石斧、石棒、石槍、耳飾り、縄文土器、須恵器等が発見されています。
古墳時代に入ると身分差が進み、大規模な古墳はありませんが、数多くの古墳が点在しています。
律令制下では若狭国遠敷郡に属し、天長2年(825)7月10日に遠敷郡を割いて大飯郡を立てると、大飯郡に属しました。
大飯郡には木津郷と阿遠郷があり、町内で「青」を含んだ地名が点在する一帯が「阿遠郷」の名残と推定されています。
木津郷は「高浜駅」と「和田駅」を含む一帯と見られ、藤原宮跡地から発見された木簡に「木ツ里」や平城京跡から発見された木簡に「木津」や「木津郷小海里」と記されています。
神社の開創も進み、青海神社、香山神社、日置神社、佐伎治神社は延喜式神名帳に記載された式内社、又はその論社とされます。
鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府の支配下に入り、建久7年(1196)には幕府の御家人である青六郎兼長、青七郎兼綱、青九郎盛時、木津平七則高、薗部次郎久綱、和田次郎実員が当地に入部しています。
荘園の成立も相次ぎ、町内には木津庄、立石本庄、立石新庄が確認されています。
木津庄が何時頃成立したのかは判りませんが、高浜、薗部、岩神、笠原、子生、坂田、鐘寄、中津海などがその範囲とされ、貞治7年(1368)正月に発給された兵衛田地譲状に庄名が記されています。
明徳4年(1393)5月18日に室町幕府3代将軍足利義満が京都府宮津市の久世戸文殊堂を参拝した際、木津庄高浜の矢穴にも足を延ばし高浜の玉花院に1日逗留しています。
同じく、応永2年(1395)9月19日には4代将軍足利義持も久世戸文殊堂を参拝した後に高浜矢穴を訪れ、玉花院に入ると周辺を御遊覧しています。
立石庄は平安時代に成立したと推定される荘園で、治承4年(1180)5月11日に発給された皇嘉門院惣処分状によると、関白藤原忠通の娘である藤原聖子から、母親の藤原宗子が創建した最勝金剛院に譲られた旨が記されています。
その後、最勝金剛院を含む法性寺は忠通から子供である九条兼実に譲られ、さらに、元久元年(1204)4月23日に発給された九条兼実置文によると、兼実は娘の宜秋門院に譲り、宜秋門院が没した後は孫である道家に相伝させる旨が記されています。
戦国時代に武田家が若狭守護職に就任すると高浜の地には一族である逸見氏、和田には粟屋氏、石山には武藤氏が配されました。
逸見氏は逸見党と呼ばれる独自の家臣団を形成し、次第に主家である武田家とは異なる行動を起こし、永禄4年(1561)には逸見昌経が、同じく武田家の重臣と目された粟屋勝久と同盟を結び、反乱を起こしています。
リメイク版の高浜町の動画
逸見氏は三好長慶や松永長瀬から支援を受ける等抵抗を続けた為、武田家も独自の兵力だけで鎮圧する事が出来なかった事から、越前守護職の朝倉家の介入を受け、何とか反乱を鎮めています。
永禄8年(1565)に再び反乱が発生、しかし、これも翌年の永禄9年(1566)に鎮圧されています。
織田信長が台頭すると昌経は逸早く従属し、織田家の越前侵攻に従軍、若狭国で織田方に転じた国人領主達の筆頭として功績を挙げた事から本領である高浜城5千石が安堵されています。
天正9年(1581)に昌経が死去すると、高浜城には織田信長に才能を見出され直臣となった溝口秀勝が5千石で入部しています。
天正10年(1582)に本能寺の変で信長が横死すると、秀勝は羽柴秀吉に従い、天正11年(1583)には丹羽長秀の与力大名となり大聖寺城4万4千石で移封となっています。
代わって、賤ヶ岳の戦で秀吉に従い大功を挙げた堀尾吉直が1万7千石で入部し、天正12年(1584)には2万石に加増されています。
天正13年(1585)に吉直が富山の役で功績を挙げると、豊臣秀次付の宿老に抜擢され若狭国佐垣に2万石で移封となっています。
代わって、吉直と同様に豊臣秀次付の宿老となった山内一豊が入部しましたが、その直後に秀次が近江八幡城に本拠地に遷した事に伴い、長浜城2万石で移封になっています。
天正15年(1587)に浅野長吉が若狭国小浜8万石の国持大名として入部すると、当地には家臣である浅野久三郎を配しています。
長吉は小田原の役や奥州仕置きなどで功績を挙げ、文禄2年(1593)に甲斐国に移封になると、代わって文禄3年(1594)に木下利房が2万石で入封しています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで利房は西軍として行動した事から改易となり、代わって京極高次が入部、高浜城には家臣である佐々木義勝が5千石で配されています。
佐々木義勝は若狭国守護職武田元明の弟、又は子供とされ、元明が死去すると「津川」姓に改め、親戚筋の京極家の重臣となると、京極家の本姓である「佐々木」姓を称する事を許されています。
寛永11年(1634)に酒井忠勝が小浜藩主になると、高浜城は廃城となりましたが、高浜は当地域の経済、行政の中心地だった事から、藩の大飯郡の蔵屋敷や奉行所等の出先機関が設けられ、和田には代官所が設置されました。
又、高浜の地は丹後街道の宿場町として多くの荷物や旅人の往来があり大いに賑わったとされ、現在でも街道沿いには伝統的な町屋建築が軒を連ね、当時の雰囲気が残されています。
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