敦賀市: 気比神宮

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概要・歴史・観光・見所
気比神宮(敦賀市)概要: 気比神宮の創建は不詳ですが、はるか太古に伊奢沙別命(気比大神・笥飯大神・御食津大神)が天筒の嶺(現在の敦賀北小学校の校庭付近)に降臨したのが始まりと伝えられています。仲哀天皇が即位した際には国家安寧の祈願が行われたとされ、三韓征伐の際は神功皇后が玉姫命、武内宿禰命と共に参拝し、随行した御珠玉姫命には伊奢沙別命が降臨、「天皇外患を憂い給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」との御告げがあり、改めて伊奢沙別命(気比大神)を祀る社殿が造営されました。「古事記」や「日本書紀」にも記載されている古社で特に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との関係が深く朝廷からも重要視されていた事が窺えます。文武天皇の御代(697〜707)、勅命により社殿が建立され、大宝2年(702)に仲哀天皇と神功皇后の分霊が勧請合祀され、さらに東殿宮には日本武尊の分霊、総社宮には応神天皇の分霊、平殿宮には玉姫命、西殿宮には武内宿禰の分霊がそれぞれ勧請され「四社之宮」と呼ばれました。その後、神仏習合し霊亀元年(715)には神宮寺(気比神宮寺)が開山し記録が残っているものとしては日本最古の神宮寺と云われています。奈良時代から平安時代にかけて渤海国(当時、朝鮮半島北部にあった国)との交流が盛んになると天平神護2年(766)、気比の松原に渤海使の停宿所である松原客館が設けられ気比神宮の宮司が検校の役目を負っていました。

格式も高く天平3年(731)には既に従三位に列し、寛平5年(893)には正一位勲一等、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には「越前国敦賀郡気比神社七座並名神大社」と記載され、北陸地方総鎮守、越前国一ノ宮として信仰を広めました。以来、時の為政者や歴代領主に崇敬され社殿の造営や社領の寄進が行われ最盛期には24万石という広大な神領を領し48家の祠官36坊の社僧を擁していました。建武3年(1336)には気比神宮の大宮司氏治は恒良親王、尊良親王を奉じた新田義貞と共に金ヶ崎城に入り北朝方の足利勢と戦い敗北し大きな被害を受け社領も大幅に削減されます。戦国時代には越前国守護職の朝倉家(本拠:一乗谷)から庇護された事で、越前に侵攻する織田信長と対立、元亀元年(1570)に朝倉家と共に天筒山の城や金ヶ崎城に立て籠もりますが激戦の末落城、信長の越前平定が成ると社殿の破却や社領の没収などで気比神宮は著しく衰退します。

江戸時代に入ると福井藩主結城秀康に崇敬され、慶長19年(1614)には社殿を造営し、社領100石を寄進、三代将軍徳川家光も父親である徳川秀忠の大病平癒の祈願した際50石を寄進、社家8家も再興されました。その後も福井藩(藩庁:福井城)だけでなく小浜藩(藩庁:小浜城)や越前大野藩(藩庁:大野城)からも庇護されましたが中世に繁栄した往時には遠く及ばなかったとされます。一般庶民からも広く信仰され元禄2年(1689)旧暦8月14日には奥の細道で敦賀を訪れた松尾芭蕉も気比神宮を参拝しています。明治4年(1871)に国幣大社に列し、明治28年(1895)に官幣大社に昇格し当初は気比神社と称していましたが神宮号宣下の御沙汰を賜わって気比神宮と社号を改称しています。昭和20年(1945)の戦災により多くの社殿、社宝、記録などが焼失し、中でも本殿は慶長19年(1614)に結城秀康が造営した優れた建物として国宝の指定を受けていましたが粉塵に帰しました。気比神宮の大鳥居は戦災で焼け残った数少ない遺構の1つで正保2年(1645)に建立、高さ10.93m、柱間7.45m、漆塗り、春日大社(奈良県)、厳島神社(広島県)と共に日本三大鳥居の1つに数えられ、大変貴重な事から明治34年(1901)に国指定重要文化財に指定されています。

気比神宮:写真

気比神宮
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