武田耕雲斎等墓(敦賀市)概要: 江戸時代末期、尊皇攘夷を訴える水戸浪士達は武田耕雲斎を中心に天狗党を結成し、水戸から中山道を進軍し京都に上洛しようとしました。武田耕雲斎は武田信玄に従った跡部家の後裔で、耕雲斎の代で水戸藩主徳川斉昭の許しを得て武田姓に改めました。
跡部家は300石程度の中級武士でしたが、耕雲斎は斉昭の側近として重用され、安政3年(1856)には水戸藩の執政に就任し斉昭の尊皇攘夷運動を助けました。
しかし、万延元年(1860)、斉昭が病死すると耕雲斎は藩政からは排斥され、水戸藩の尊皇攘夷派の過激な行動を抑えきれなくなり、逆に狗党の首領に擁立されました。天狗党は幾多の戦いを経て元治元年(1864)10月、ようやく越前まで辿り着きましたが12月、敦賀・新保宿で大雪になり身動きが取れなくなり幕府軍に囲まれ捕縛されました。
翌年、来迎寺境内で武田耕雲斎をはじめ藤田小四郎らが353人が斬首され、小高い塚の上には15基の墓が建立されました。武田耕雲斎等墓は昭和9年(1934)に国指定史跡に指定されています。
武田耕雲斎等墓:上空画像
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