・結城晴朝館は慶長6年に結城秀康が越前国67万石の太守として入封した際、養父である結城晴朝の居館として築いたものです。
結城晴朝は天文3年に小山高朝の3男として生れましたが、永禄2年に叔父で、結城家16代当主結城政勝が死去すると、政勝の嫡男の明朝が既に死去していた事から結城家の家督を継ぐ事になりました。
小田原北条氏と対立していた関係から、同じく北条家と激しく争っていた佐竹氏と姻戚関係を結び北条家の北上を抑えています。
天正18年に発生した小田原の役では佐竹氏と共に豊臣方に参陣した事から所領が安堵されています。
晴朝は豊臣家と関係を深める為に養子縁組を願い出ると、徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子となっていた秀康を結城家の養女としていた江戸重通の娘である鶴子の婿養子として迎えています。
晴朝は秀康は結城家の家督を継ぐと隠居しましたが、秀康は征夷大将軍となった徳川家康の次男で、67万石の大大名になった事もあり、「徳川」姓の復姓を画策するようになった事から、家康に願い出て秀康の5男である松平直基を養育するようになっています。
慶長12年に秀康が死去し、嫡男の忠直が家督を継ぐと「松平」姓を掲げた事から事実上「結城」姓の本流が失われています。
慶長19年に晴朝が死去すると結城家本流の血脈も失われたものの、結城家の祭祀は養育していた松平直基の系統が引き継いでいます。
結城晴朝館は方一町規模で北側と西側には低山、東側の日野川が天然の防衛施設と見立て、北側の低山に鎮座する八幡神社が実戦上の本丸を想定していたようです。
さらに、肩粕村前に約600m、片粕村後に約1580mの水路を設け、周辺の新田開発をすると共に戦時には防衛施設として利用する計画だったとされます。
慶長11年に北ノ庄城が完成すると城内の漆ケ淵の屋敷に遷りましたが、慶長12年に秀康が死去すると、4歳だった直基(五郎八)に当館4千石を譲り、当地で養育したとされます。
寛永元年に直基が勝山藩2万5千石の藩主に抜擢されると、当館は廃されたと思われます。
結城晴朝館の跡地は貴重な事から福井市指定史跡に指定されています。
福井県:城郭・再生リスト
|