若狭彦神社

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概要・歴史・観光・見所
若狭彦神社(小浜市)概要: 若狭彦神社は福井県小浜市遠敷に鎮座してる神社です。若狭彦神社の創建は和銅7年(714)、鵜の瀬付近に遠敷明神が降臨したのが始まりと伝えられています(付近にある白石神社は若狭彦神社の元宮とされています)。霊亀元年(715)、元正天皇の勅願により遠敷明神を現在地に遷座し、さらに養老5年(721)、若狭姫神社を分祀して、若狭彦神社を上社、若狭姫神社を下社としました。格式が高く、「続日本紀」によると宝亀元年(770)8月1日に朝廷から伊勢朝臣諸人・佐伯宿禰老が遣わされ神馬が奉納され、「新抄格勅符抄」によると大同元年(806)に封戸10戸を納め、「日本三代実録」によると貞観元年(859)に正二位、天慶3年(940)に正一位に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には「若狭比古神社二座」と記され、若狭一宮、名神大社として広く信仰されるようになりました。

若狭彦神社の祭神である彦火火出見尊は日子番能邇邇藝命と木花之佐久夜毘売の3男で、奈良時代に成立した「日本書紀」と「古事記」で「山幸彦と海幸彦」の山幸彦として登場し、海神(大綿津見神)の娘である豊玉姫(若狭姫神社の祭神)と結婚して鵜葺草葺不合命が生まれています。山幸彦に敗れた兄である海幸彦(火照命)は弟に従い隼人の祖になったとの神話から、舞台は九州地方とされ瓊々杵尊、彦火火出見尊、彦波瀲武盧茲草葺不合尊は日向三代とも云われています。

若狭彦神社の主祭神が彦火火出見尊という事は若狭彦神と同神という事になりますが、何故、九州に縁があると思われる彦火火出見尊が若狭彦神社の主祭神として祭られているのかいまいち良く判りませんでした。当然、最初は若狭彦神が祭られていたと思われますが、後白河院(第77代天皇・在位:久寿2年:1155年〜保元3年:1158年)が平安時代末期の院政時代に命じて「彦火火出見尊絵巻」を制作させ、その後、若狭国松永庄新八幡宮の所有を経て明通寺に渡り、江戸時代に小浜藩主酒井忠勝が3代将軍徳川家光に献上している事から、少なくと平安時代末期には彦火火出見尊の伝承か何かが若狭国に伝わっていた事窺えます。

資料的価値に疑問視されている「先代旧事本紀」の「国造本紀」によると若狭国造は「允恭朝の御代に、膳臣の祖・佐白米命の子の荒砺命を国造に定められた。」とあります。古代の若狭国は天皇に食膳を貢納する「御食国」で、10日毎に「雑魚」、節日毎に「雑鮮味物」、1年に一回は「生鮭、ワカメ、モズク、ワサビ」を御贄として納める事が定められ、塩で納税していた事が判っており、天皇に料理をして献上し「膳臣」の姓を賜った膳氏一族が若狭国造を務めるのは相応しい事と思われます。

若狭彦神社は遠敷郡に位置し、かつて遠敷郡上中町には数多くの古墳が築造され、埋葬者は若狭国造の膳臣一族の可能性が高いと推測され、現在残されている脇袋・天徳寺古墳群の中でも西塚古墳・上ノ塚古墳・中塚古墳・上船塚古墳・下船塚古墳の5基は国指定史跡に指定されています。特に注視するのは西塚古墳と森古墳の石室内部は九州北部に築造された番塚古墳(福岡県苅田町)や関行丸古墳(佐賀県佐賀市)との類似性が指摘され、向山一号墳(5世紀中葉:前方後円墳、全長約48.6m)は九州の影響を受けた本州最古級の横穴式石室を有していた事です。さらに、中国製や朝鮮半島製の副葬品が多数発見されており、膳氏は九州北部、中国、朝鮮と関係が深い氏族だった事が窺えます。

北部九州の中でも魏志倭人伝で伊都国として登場し、その中心部だったと推測される福岡県糸島市には記紀神話で記されている多くの地名が残され、神話で登場してくる神々を祭る神社も多数鎮座し、「山幸彦と海幸彦」神話も糸島半島や壱岐、対馬が舞台だったとの説もあります。特に対馬の和多都美神社には日子穂彦穂出見命(彦火火出見尊=山幸彦)と豊玉姫が祭られ、美津島町濃部は山幸彦がく忍び住んだ事から地名の「ノブ」の由来となり、天神神社には山幸彦が祭られています。又、鴨居瀬の住吉神社の境内は山幸彦が当地に到着し、豊玉姫が彦波瀲武盧茲草葺不合尊を出産した地とされ、祭神として彦波瀲武盧茲草葺不合尊が祭られています。その他にも山幸彦や豊玉姫の史跡や祭られてる神社が複数あります。

奈良時代に編纂された「筑後風土記」の逸文によると「豊前国上膳県」という地名が記され、大宝2年(702)の豊前国上三毛郡加自久地里戸籍に「膳臣・膳大伴部」、塔里戸籍に「膳大伴部」の名前が見られ、平安時代初期に編纂された「日本霊異記」にも慶雲2年(705)9月15日に豊前国宮子郡の少領、膳臣広国が死没し、3日後に蘇生した様子が記されている事から豊前国(福岡県東部、大分県北部)に膳臣一族が居していた事が窺えます。

以上の事から察すると膳臣は北部九州出身の豪族で、若狭国に進出した際に関係が深かった彦火火出見尊を祭る若狭彦神社と豊玉姫を祭る若狭姫神社を創建したような印象を受けます。さらに、膳臣は北部九州に人脈や地勢を熟知している事から大陸と大和王権(朝廷)を結ぶ重要役割を持ち、若狭国が大陸への入口の一つとして整備された可能性があります(勿論私論です)。※日本書紀では膳臣は孝元天皇の皇子である大彦命の子比古伊那許士別命を祖としています。

乾元2年(1303)の詔戸次第によると建暦2年(1212)1月2日の国庁神拝に大介藤原朝臣の奉幣が記載されている事から歴代の国司や守護との関係性が窺え、特に中世は神官でる牟久氏が周辺の国人領主と姻戚関係を結ぶ事で庇護を受け社運が隆盛しました。天正10年(1580)本能寺の変後、若狭国守護の武田家は明智光秀に加担した事から羽柴秀吉により改易となり、若狭彦神社は庇護者を失い衰微し、太閤検地でも社領を僅か11石しか認められませんでした。江戸時代に入ると歴代小浜藩(藩庁:小浜城)の藩主から庇護され京極高次は引き継き一宮領として11石を安堵し、寛政7年(1795)には当時の小浜城の城代酒井忠為が病気平癒の祈願を行い太刀を奉納しています。

古くから、神仏習合し別当には神宮寺があたっていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され神社として独立、明治4年(1871)には国幣中社に列しています。ただし、神宮寺では、昔、遠敷明神が漁に夢中になり東大寺二月堂建立の修二会に遅れた為香水を送る事になった故事から、現在でも毎年3月2日に行われる、奈良東大寺二月堂へのお水送り神事が続けられ神仏習合の名残が見られます。室町時代以降は下社である若狭姫神社で祭祀が行われるようになり、現在は当時は二宮とされた若狭姫神社と合わせて一宮とし、祭神である若狭彦大神は山幸彦と海幸彦神話の山幸彦である彦火火出見尊と同義で就中、農林商業、漁業、縁結び、安産育児、学問、厄除け、交通安全等に御利益があるとして多くの参拝者が訪れ、畳、敷物業の守護神として関係業者やインテリア業界からの信仰されています。

若狭彦神社の社殿: 現在の本殿は文化10年(1813)に再建されたもので三間社流造、桧皮葺、桁行5.548m、梁間6.424m、正面3間向拝付、外壁は素木板張、大型の本殿建築で規模や時代的に反して華美な彫刻や意匠が少なく周囲を板塀で囲み荘厳な雰囲気が感じられます。神門(中門)は天保元年(1830)に建てられたもので切妻、桧皮葺、一間一戸、桁行2.7m、梁間2.21m、四脚門。随神門は江戸時代後期に建てられた八脚の単層門で入母屋、桧皮葺、三間一戸、桁行3間(6.348m)、梁間2間(4.256m)、内部には各4躯ずつ随神(随従の吉祥8人)が安置、境内にある他の建物と同様に華美な意匠を廃している為、杉の巨木とあいまって古社の歴史を感じさせてくれます。若狭彦神社本殿、神門、随神門は江戸時代に建てられた社殿建築の遺構として貴重な事から昭和54年(1979)に福井県指定有形文化財に指定されています。

若狭彦神社の文化財
・ 本殿−文化10年−三間社流造、桧皮葺−福井県指定文化財
・ 神門(中門)−天保元年−切妻、桧皮葺、四脚門−福井県指定文化財
・ 随神門−江戸時代後期−入母屋、桧皮葺−福井県指定文化財
・ 太刀 銘 宗□(伝宗近)-平安時代-長さ79.1cm,反り3cm-国指定重要文化財
・ 紙本墨書詔戸次第-鎌倉時代-7紙,縦30.1cm,全長339.6cm-国指定重要文化財

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-福井県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板(由緒碑)-若狭姫神社社務所

若狭彦神社:社殿・境内・写真

若狭彦神社境内正面に設けられた巨大な石燈篭
[ 付近地図: 福井県小浜市 ]・[ 小浜市:歴史・観光・見所 ]
若狭彦神社参道に設けられた鳥居(木製)と石造狛犬 若狭彦神社鳥居に見立て2本杉の大木と石燈篭 若狭彦神社参道にある神橋と神門(随身門) 若狭彦神社参道から見た神門(随身門)
若狭彦神社神門(随身門)傍に生える夫婦杉 若狭彦神社神門(随身門)から見た境内 若狭彦神社旧拝殿跡越に見える神門(中門)と本殿 若狭彦神社神門(中門)越に見える本殿
若狭彦神社本殿と玉垣(透塀) 若狭彦神社の境内社である若宮社 若狭彦神社境内にある施設 若狭彦神社境内に流れ落ちる手水


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