小浜市: 常高寺

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概要・歴史・観光・見所
常高寺(小浜市)概要: 常高寺は福井県小浜市小浜浅間に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。凌霄山常高寺の創建は寛永7年(1630)、常高院(信長の妹お市と小谷城主浅井長政の次女)が夫で小浜藩(藩庁:小浜城)初代藩主京極高次の菩提を弔う為、小浜出身の槐堂周虎禅師(京都妙心寺の僧)を招いて開いたのが始まりと伝えられています。常高寺の境内は元々狭国守護職武田信親の菩提寺である栖雲寺が境内を構えていましたが、常高寺を創建するに当たり廃寺としています(栖雲寺はその後、隣地に寛文2年:1662年に再興しています)。

常高院は寛永10年(1633)8月27日、京極忠高(小浜藩2代藩主)の江戸屋敷で死去、享年67歳、戒名「常高院殿松嚴永昌大姉」、遺骸を中山道を西上し常高寺まで運ばれると当寺で葬儀を行い、その後境内の山中に葬られ、高さ4m砂岩製の宝篋印塔が建立されました。当初は常高院が寺領300石を与えていましたが、死去後は妹が2代将軍徳川秀忠の正室お江だったこともあり、幕府によって寺領300石が引き続き安堵され、京極家以後藩主になった酒井家からも庇護されました。

又、常高院の遺言で京極家が移封となり当地から離れる事になっても常高寺を小浜に留まらせる事を希望した為、寛永11年(1634)に忠高が松江藩(島根県松江市)に移封になった際にも高次の墓碑は松江城下(寶亀山安國寺)に移されたものの常高院の墓碑は現在地に残されました。その後も遠地から京極家が庇護した事などから寺運が隆盛しましたが、明治時代に入り廃藩置県、版籍奉還などが執行されると、庇護者だった幕府は消失、小浜藩、丸亀藩(京極家)は廃藩となった為衰微し、さらに大正12年(1923)に本堂などが焼失、昭和39年(1964)には山門が焼失し遂に無住になりました。その後、由緒ある常高寺の再興再建の機運が高まり平成2年(1990)から随時再建されています。常高寺山門は入母屋、桟瓦葺(下屋庇:桟瓦葺き)、三間一戸、八脚二重楼門、外壁は真壁造り板張り(下層部両側は増築したようです?)、上層部花頭窓、高欄付。山号:凌霄山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:観世音菩薩。

現在でも常高寺境内には常高院の宝篋印塔(砂岩製、高さ4m、塔身前面には「空」・「風」・「火」・「水」・「地」の文字、地輪の正面には戒名「常高寺殿松岩栄昌大姉」が刻まれています)の他、絹本著色常高院肖像画や常高院自筆消息、書院(狩野式部卿法眼洞春藤原美信作、壁画床2面、障壁画1面、縦253cm、横278cm、両側面80cm)など常高院縁の品々を数多く所有しています。常高寺境内周辺は江戸時代は小浜西組と呼ばれ現在でも当時の町並みを色濃く残している事から名称「小浜西組伝統的建造物群保存地区」として平成20年(2008)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

【 常高寺菩提者:初(常高院) 】-開基者である常高院は浅井三姉妹(浅井長政と織田信長の妹である市との間に生まれた長女「茶々」、次女「初」、三女「江」)の次女「初」として生まれました。天正元年(1573)、父親である浅井長政は叔父である織田信長から離反した事から居城である小谷城(滋賀県長浜市)が攻められ落城、長政は自刃しましたが母親である「市」と「初」を含む三姉妹は織田家の家臣から救出されました。その後は織田家によって庇護されていましたが、天正10年(1573)に本能寺の変で信長が倒れると清洲会議によって「市」と織田家筆頭家老柴田勝家との婚姻が決まり勝家の居城である北の庄城(福井県福井市)に移り住みました。

天正11年(1574)、柴田勝家と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の対立から賤ヶ岳の戦いが起こり勝家は敗北、北の庄城も落城し「市」は勝家と共に自刃し、三姉妹は秀吉、又は織田信雄の庇護になります。天正15年(1587)に秀吉の斡旋により京極高次と結婚。京極高次の生母は浅井久政の次女であるマリアで長政の姉にあたる人物だった事から「初」から見ると高次は従兄弟にあたります。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、京極高次は豊臣家を見限り徳川方に転じた為、居城である大津城(滋賀県大津市)に立て籠もり、西軍の主力の1つ立花宗茂と交戦、結果的に開城し剃髪した後に高野山に入りました。

しかし、立花宗茂の遅れが関ヶ原の戦いで東軍勝利に大きく貢献した事となり小浜藩(福井県小浜市)8万5千石が与えられ若狭一国の国持大名に出世しました。慶長13年(1608)に豊臣秀頼の庶子、豊臣国松が生まれると「初」が預かったとされ慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際には国松を連れ立って大坂城に入城したとされます(伝承によると国松を長持に入れて密かに城内に入城させたと伝えられています)。大坂の陣は姉である「淀」が豊臣秀頼の生母、妹である「江」が徳川秀忠の正室として対立関係にあり、常高院(初)が大坂方の使者として奔走しましたが、開戦に及び、戦局が膠着状態になると徳川側の阿茶局と図り両家の和睦を果たしています。しかし、慶長20年(1615)の大坂夏の陣では豊臣家と共に姉「淀」を失っています。寛永10年(1633)に死去。享年64歳。法名「常高院殿松嚴永昌大姉」。

常高寺の文化財
・ 絹本著色京極高次夫人像-江戸初期-縦117.7p、横51.5p-福井県指定文化財
・ 紙本墨書常高院自筆消息-江戸初期−縦46.3p、横30.4p-小浜市指定文化財
・ 常高院墓所−寛永10年−宝篋印塔、高さ4m、砂岩−小浜市指定史跡
・ 壁画床(2面)・障壁画(1面)-狩野派:洞春美信作(三四郎)-小浜市指定

常高寺:写真

常高寺境内正面に設けられた山門と石造寺号標
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常高寺山門(楼門)から見た境内 常高寺参道から見た本堂正面 常高寺境内に建立されている常高院墓所 常高寺境内に設けられている鐘楼と梵鐘


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